お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

腐っても自分

あ...ありのまま今起こったことを話すぜ!
「おれは机の上に食器を置いたと思ったらいつの間にか母の頭の上に置いていた」
な...なにを言っているのか分からねぇと思うが、おれも何をしたのか分からなかった...
頭がどうにかなりそうだった...ドジっ娘だとかポンコツだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ...

ー以上、コピペ終わりー

 


では以下に詳細を述べてゆこう。

そう、あれはものの数時間前のこと。
僕はいつものように母と父と3人で夕食を食べていた。このとき僕は、普段と全く変わらぬその景色が、数分後には見るも無残な姿に豹変するなんて予想だにしていなかった。

机上に並べられた副菜。僕はそのひとつに手を伸ばし、口に運ぶや違和感に気づいた。

「これ、ちゃんと温まってないよ」

昨晩の残りをレンジで温めただけのそれは、ところどころ冷蔵庫の冷気が残っている箇所があり、十分に温まっているとは言えない状態であった。
僕の母は調理師というだけあり、「75度1分以上」という概念にかなり固執している。どういうことかと言うと、サルモネラカンピロバクターなどいわゆる食中毒を引き起こす菌類のほとんどは75℃以上1分間の加熱を与えることで死滅してくれる。
もちろん完璧な措置ではないが、現にこの方法を継続している今の今まで食に中った者はおらず、家庭でおこなう範囲ではこれで事足りると言えるだろう。

そういうわけで、特に肉や魚など菌が繁殖しやすい食材の入ったおかずに関しては過敏に加熱具合を気にしてしまう。

「もう一回温めてくれば?」

母の至極当然な返答に、億劫ながらも席を立ち、電子レンジのある台所へと足を向けた。

1分後。
「レンジでチンする」といういかにも頭の悪そうな表現方法が一般的になっているため、もう「チン」以外の何音にも聞こえなくなってしまったが、とにかく加熱の終了を告げる音が鳴り、僕は庫内の器を取り出した。

「ちょっと熱いな」

もともと70%くらいは温まっていた食材を、再度加熱したのである。そりゃあ湯気はグングン立ち上り、食器はかなりの高温になっていた。

さて、どうするか。

ここでの選択肢は大別して3つある。
ひとつは我慢して素手で持ってゆく。もうひとつは盆に入れて運ぶ。最後にミトンやタオルのようなものを手と食器の間に挟んで持ってゆく。
大概の場合は、これらのうちいずれかを採用することが多かろう。


そして僕がセレクトしたのが、「我慢して素手で持ってゆく」というものだった。今思えばこれが諸悪の根源。全ての元凶にして、事件を引き起こす鍵となった。

しかし、皆さんも一度は経験があるはずである。
たしかに食器の一部は大変高温になっておりとても素手で持てたもんじゃあないが、それらにもムラがある。つまり、そこまで高温ではない部分を探して指をそえることで、どうにか持ち上げることはできる。

今回も例にもれず、そんな理由から素手で掴むことを決め、いざ出陣。
1歩、2歩3歩と慎重かつ俊敏にダイニングテーブルを目指す僕。

しかし、ここで事件は起こった。
食器を運ぶ指が、あまりの熱さに耐えきれなくなったのである。

補足説明しよう。
さきほど僕は、「どうにか温度の低い部分を」などとのたまったが、それは「指をそえた」ときに感じた温度であり、持ち上げた時のそれではない。
食器を持ち上げるとき、指には圧力がかかるため当然器との接地面積は大きくなる。つまりどういうことかと言うと、はちゃめちゃに熱くてやけどしそうになっていた。


「熱っちぃ~!」と叫びながら、京舞妓のごとく小走りで急ぐ。
視界にテーブルを捉え、どうにか我慢の限界に至るのを回避できそうだと思ったそのとき、

「おい、うそだろ...」

テーブルの上には、お皿を置けるスペースが十分になかったのである。
僕が台所にいる間に誰かがお皿の配置をずらしたのであろう、幅10㎝にして奥行8㎝、たったそれだけの物を置く空間が机上からは失われていた。

たしかに冷静になって器を少しずつ動かすことができれば、そのスペースは余裕で確保できただろう。しかしご存じのとおり一刻一秒を争う戦いにおいて、その選択肢は無きに等しいもの。

どうする?どうする?どうする?
考えているうちにも、着実にテーブルには近づいている。その距離、残り2メートル少々。


そのとき、ふと。
僕の視界には、母の姿があった。
母は台所に近い側に座っていたため、テーブルに辿りつくには物理的に母を越えねばならない。

つまり、つまりだよ?
現状、母はテーブルよりも近い場所にいる。そしてテーブルの上にはスペースがない。

そろそろ、結末は見えてきただろうか。僕にとっては終末であったが。

わずか1秒足らずのあいだに、intel CORE i2くらいのスペックしか無い僕の脳みそで導き出した答えは、「母の頭頂部に置く」というものであった。


「危ないところだったぜ...」
弥縫策として母の頭上に緊急退避させたその器は、それはもう見事なバランスで置かれていた。


「ぅあっっちぃぃぃいいい~~~~!!!!!」

しかし、平和な時間は長くはもたない。
母の頭頂部と接地しているのは器の底部であり、それはもっとも高温の箇所とも言える。文字のごとく降りかかった火の粉を払い落すのは当然のことで、それは髪の毛というバリアがあったとしても到底我慢できる範疇を逸脱していたらしい。

「ぎぃぃゃゃぁぁあああああああああ!!!!」

断末魔としか形容できないその叫びとともに、母は首を大きく横に振る。その動きに合わせるように皿の中にあった食材は虚空を舞い、絨毯という名の地面に降りそそぐ雨となった。


「てめぇいい加減にしろよ!!」


そこから先は言うまでもあるまい。
10分近く怒鳴り続ける母。平謝りしかできない僕。無言で箸をつつく父。

しかし母親とはなかなかどうして怒りの発散方法が理解しがたい。
10分も怒鳴っていると怒りの内容が当初とはかけ離れ、最初は「脳みそ腐ってんじゃないの!」とか言っていたのに終いには「洗濯物さっさと畳めよ!」というところに落ち着いていた。

そうなると、僕のほうもまじめな態度が緩まってくる。
下を向いて「早く終わんねぇかな」と考えていると、ふとあの時の断末魔が脳内で響いた。


「ぅあっっちぃぃぃいいい~~~~!!!!!」「ぎぃぃゃゃぁぁあああああああああ!!!!」

舞い踊る母。舞い散る食材。無言の父。

そのすべてがスローモーションで再現され始め、耐えきれなくなった僕は不覚にも相好を崩した。

「なにを笑ってんだよ!!」

気づかれた。終わった。さらに10分追加である。
ここまでくると、こちらとしても若干怒りの感情が湧いてきてしまう。

たしかに僕が悪いし、申し訳ないことをしたと思っているし、だから理不尽な物言いにも反抗せず「私が悪ぅござんした」と一点張りで謝罪を重ねた。

けれども、99%は間違いなく僕が悪いけども、地面を汚した罪に関しては母に余罪なかろうか。

何の前触れもなく頭上に高温の食器が置かれれば、誰だって吃驚するだろう。しかし、あの首振りがもう少しだけライトなものだったら、被害は少なく済んだのではなかろうか。
あれはまさしくライブハウスのパンクロッカーを彷彿とさせるモーションで、むち打ち症を心配したほどである。

「そこまで大仰でなければ、あれ程までぶちまけずに済んだのに」

怒り狂う母を前に、最終的には「俺は悪くない」みたいな考えが脳内を駆け巡ってきたところでどうにか終戦


怒りの鎮まらぬ母に聞こえないよう、父にその考えを告げてみたところ、「いや、お前が100パー悪いだろ」と当然に言われた。
本当に脳が腐っているのかもしれないと感じた今年の春。ちなみに厄年である。

ともだちの彼女は美人でした

友達の彼女にはじめて会ったんです。めちゃくちゃ美人でした。
書きたい事実はそれだけだし、それ以上のことなんてないのだけれど、どうしてこうも物悲しい気分になってしまうのだろうか。

いやね。
飲み会の悪ノリで「おいお前、彼女ここに呼べよ!」みたいなダサすぎる煽りに乗じたY君が本当に彼女を呼びつけていたらしく、1時間後にしれっとログイン。
なんか目大きいし鼻高いしフワフワしてるしなんだこの娘は。ひょっとして天使ですか。


童貞の弊害だろうか。最近どうにも通りすがる女性が全員綺麗に見えて仕方がない。ひょっとしてここは桃源郷ですか。
セントフォース所属の女子アナとか女神クラス。
彼女たちはアレだよね、サキュバスよろしく身体から聖なるオーラみたいなやつを発しているよね。僕も魔法使い(30歳)になったらはやく透視能力を手に入れたいものだ。

とはいえ最近、パーパーあいなぷぅに対しても「悪くないな」とか思い始めているのでかなり重症。だれか助けてくれ。


友達の彼女の話に戻る。戻りたくはない。

聞くところによると、ふたりはとても仲が良いらしくて、普段から一緒にお風呂に入るのだとか。
あと、彼女さん。歯科衛生士らしいです。
ちなみに最近の彼女さんは、赤ちゃんがほしいとか言っているそうです。


なにそれ。
どういう徳を積んだらそんな幸せな会話できんの。前世で惑星でも救ったんか。僕のばあいは人生が詰んでいる。笑えない。
あぁ神よ。もう通りすがるたびに自販機の釣り銭口を覗く癖は直します。なのでどうぞおひとつ、決してわがままは言いませんので、フワフワでモチモチでエチエチな彼女を僕に恵んでください。

 

不公平こそが人生の醍醐味であろうか。
せめてイチャラブしたまま爆発したかった。
もう僕にそんな耐性はありません。

彼らはまるで、コーヒーの底で溶け残った砂糖のようだ。
僕ならば真っ先に溶けてしまう。そして苦く頽廃的な世界を漂い続ける。
しかし彼らは結束が強い。誰も見えない奥の奥まで沈んでゆき、誰にも邪魔されることなくイチャコライフを終えるのである。

 


終電を逃さぬよう僕が帰ろうとすると「俺たちも行こうか」と2人も席を立った。
おいおい嘘だろ。冗談はその繋いだ手だけにしておくれ。

彼女さんは見た目どおり良い人なので、人見知りな僕にも話しかけてくれた。
しかし、見つめあうと素直にお喋りできない系男子代表として選出経験のある僕が、まともに会話できないことなど火を見るよりも明らか。

「ごめんね、男子ウケの悪い髪形で!」にどう返して良いのか分からず、「そんなことないよ」などと当たり障りのない返答ののち沈黙。そうだ、身投げしよう。
そもそもショートカットが男子ウケ悪いとかはじめて聞いたわ。ソース出せよ、ソース。


揺れる電車。
混雑した車内で、会話のない3人が気まずさを隠し切れずに立っている。

居酒屋の帰り際、仲間内から「おい、2人を邪魔してやるなよ!」と揶揄されながら3人で店を後にしたわけだが、むしろ僕は被害者である。
僕だってこんな状況を望んだわけじゃない。

あぁ神よ、これはどういう類の試練ですか。これを乗り越えた先に希望はありますか。


「じゃ、次は披露宴で会いましょう!」
酩酊した脳みそでようやく思いついた別れ文句に、無事愛想笑いをいただいたところで、僕は振り返ることなくホームの階段めがけて一目散に駆けていった。逃げたのである。

 

後日、Y君から「彼女、お前ともうちょっとお話ししたかったみたいよ」と言われた。
なんだか無性にコーヒーが飲みたくなった。

個人的に好きな歌詞5選

そういえばむかし、ブログをやっている知り合いが「ブログは処方箋である」的なことをのたまっておられた。
文章を書く行為とは、脳内にある知識や見解を理路整然と書き並べることである。そういったプロセスによって、自分を殺さずにいられるのだと話していた。

ブログは生きがいであり、証であり、万覚え帳である。
であるならば、今の自分が好きなことを書いておくのがよい。数年後に見返して頬を紅潮させるくらいが程よいのかもしれない。


とここで、随分前にこんな報せを目にしたことを思い出した。

staff.hatenablog.com

要するに、「ブログに歌詞書きまくっておくれ」というはてなブログからの啓示である。

従来は、やれ著作権だ、画像の無断転用は肖像権の侵害だ、いやいやパブリシティ権の侵害だ、なんて処々方々からクレームが飛んでくる恐れがあったわけだが、少なくとも歌詞を当ブログに載せたところでお咎めはない。
そんな素敵な案内であった。

僕は基本的に音楽の歌詞になんて目をくれぬ人間であるが、そんな僕が震えた歌詞のフレーズをここに留めておくこととする。
キリがいいので(たくさん書きたくないというのが本音)5つだけ。

 

ひとつめ。

私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で
ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
私 驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です

 

この曲は面白い。
イントロではバスドラムとスネアだけの音がひたすら続き、まるでデモテープであるかのよう。
30秒近く経過してようやく蚊の鳴くような声で入る歌声は、裁判所で己が罪を独白するかのごとく淡々としていて、しかし物憂げである。

上に記した歌詞の恐ろしいところは、きっとこの曲を聴いた100人のうち100人が同じような風景を想起するだろう点。そしてなんだか無性に泣きたくなって、なにかに懺悔したくなる。
本人はインタビューで「音楽家よりも詩人の谷川俊太郎さんや脚本家の倉本聰さんが同業者だと感じる」と語っているが、こういったワンフレーズをとってもその才能の一端が垣間見えて面白い。
こんど彼女のツアーに足を運ぶので、時間があればレビュー記事を書きます。


ふたつめ。

バスの揺れ方で人生の意味が 解かった日曜日

草野マサムネさんは、いい加減世間も気づいているだろうが生粋の変態である。
知りもしないうちから「スピッツって優しい歌が多いよね」などと仰る御仁は、兎に角アルバム「ハヤブサ」を通しで聴いてみておくれ。

さて、本題に戻るがこの曲。
サビはけっこう有名なので、曲名とメロディが一致しない人も一聴すれば「あぁ、この曲か」となるかもしれない。というか、スピッツの場合この「あぁ、この曲か」が頻発すると思う。そのくらい日本人の五臓六腑に染み付いているはずだ。

そんなメロディーメイカーの草野さんは、変態的に天才的な歌詞を書くことでも知られている。
とはいえ、上の歌詞を見てもらえれば分かるように、常人が理解するにはあと500年ほど生きねばならない。

スピッツの歌詞は、意味不明なものが非常に多い。よく思い出してくれ。カラオケで何気なく歌っている『ロビンソン』の歌詞も分からんし、そもそも曲名からして意味分からん。
人間が死に対して恐怖を抱くのは、それが未知のものであるからだ。そしてスピッツの歌詞も未知のものである。だから怖い。

ただ面白いのは、常人でもごく稀に歌詞の意味が分かることがあるという点だ。
基本的に意味不明のまま、スピッツの歌詞は無数の点として脳内の記憶に存在している。しかしふとした瞬間、そうした点と点が一本の線になることがある。

そしてまるで悟りを開いたかのように「あぁ、この歌詞はそういうことだったのか」と、気持ち悪いくらいストンと腑に落ちて昇天。
意識が戻ったときには理解したはずの歌詞の意味をきれいさっぱり忘れている。アハ体験というよりは怪奇現象である。この現象に名前をつけてやるという方募集しています。

先日、ストロング缶を3本開けたときに上の歌詞についてふと閃いたのですが、案の定忘れてしまいました。


みっつめ

座る電車の座席の前に
手すりにもたるる老婆がひとり
ああ 恐ろしき世間の前に
俺は座席を立つものよ

他人に貸せないアルバムランキングで堂々の1位にランキングしているエレファントカシマシのアルバム『生活』から1曲。
最近の「ドーンと行け」「旅に出ようぜ」「なんでもいい」あたりのゴリ推しもいいが、火鉢をあいだにひたすら書物を漁っていた20代宮本の鬱屈した自我を表出させていた初期の衝動もまた至高。

ここまで著名なミュージシャンの比較的有名な曲をセレクトしてきたのに、一気にマニア度合いが増して申し訳ない。

同曲では、しょっぱなから「うらやましきはカラス共に 我が肉食えやと言いたる詩人よ」と嘆いているが、世間と自分との間に大きく開いた溝に対するコンプレックスとフラストレーションがすさまじい。
なにせ、彼はとっても怒っているのである。


よっつめ

  • チューリップ『夕陽を追いかけて』
都会に海が見えないから
他人は僕を笑いものにする
都会の星はとても遠いから
他人は僕を夢見る馬鹿と言う

歌詞だけを変えながら、同じメロディーをなぞるように進行していくのになんとドラマチックな曲だろうか。
こういう構造の曲は、邦楽ならTHE 虎舞竜の「ロード」、洋楽ならばEaglesの「The Last Resort」のように歌詞に比重を置いている場合によく用いられる。

ここで歌われているのは、田舎から都会に出た男の、なんともちっぽけで惨めに思われるかもしれない性である。

上の箇所は、地元に帰省した男の

でも海はまだ生きていた
いつも勇気をくれた海だった
空の星は昔のまま
指先に触れるほど近くに

という部分と対比構造になっており、田舎モンにとっては永遠のテーマソングなのかもしれない。
近年の明るい曲は、「明日を迎えに行こう」が主流ですね。


いつつめ。

  • 新沢としひこ『みちくさ』
他人の服はきれいに見える
自信を持っているように見える
あせらない あせらない 君の歩く 道は
石ころだらけで すてきじゃないか

最後に童謡。どういうことだよ。
いや、色々と迷った結果こうなりました。

新沢としひこといえば「世界中のこどもたちが」「ともだちになるために」といった、誰もが知っている童謡の作詞者として有名である。
この曲をどういった経緯で知ったのかはもう忘れてしまったけれど、歌詞がスッと染み入るような感覚があってとても好き。

俗諺に十人十色という言葉がある。金子みすゞは「みんなちがってみんないい」と言った。
これらは実は、僕の苦手な言葉である。こういう言葉を教育に持ち出すと、きまってあぶれ者が出る。平等という言葉は、差別を表出化させる。

だから周囲に問うのではなく、自分に問うべきだ。
そこに自己肯定感があれば、それでいい。そういった当たり前のことを教えてくれる歌詞だと思い、セレクトした。


というわけで、以上。
実はまだまだあるので第2弾があるかもしれないが、まぁそれは追々。

こうして自分の琴線に響く歌詞を並べてみると、僕という人間がコンプレックスの塊であるということがよく分かる。
就職活動の自己分析じゃあないが、新たな自分の一面に気づくことができるかもしれないので、皆さんもぜひおためしあれ。