お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

髪を切った。そしていつも失敗する。

前々から思っていたが、「髪を切りに行く」という表現にはやや語弊があるのではないだろうか。
自分で切るわけではない。美容師の方に切ってもらう。能動ではなく受動だ。

戦士は自ら死地に赴くようでいて、実際のところは上官の令によって「赴かされている」という表現が正しかろう。

ただし「失敗」や「生還」という結果を背負うのは、いつだって張本人。
美容師が成功や失敗のボールを握っているわけではない。

髪を切ってもらった張本人が気に入れば「成功」で、そうでなければ「失敗」になる。ただそれだけ。


何を為すにも、できれば失敗は避けたい。
失敗は成功の母なんてのは、どうにも言い訳がましい。

髪型に頓着しているわけじゃない。
かといって愛着がないわけでもない。

「長さはどうされますか?」

テキトーに繕ってくれれば良くて、何でも良いのだが、どうでも良いわけじゃない。
いわば昼飯を食べすぎた日の夕飯。

「えっと、全体的に短くする感じで。前髪は眉毛にかからないくらいに・・・」
「もみあげは?」
「あ、じゃあ短い感じで・・・」
「かしこまりました」

何をかしこまったのだろう。今の発言で何を掴んだのだ。

注文に失敗した。
大戸屋みたいに、うるさいくらいのオプションをすべてタブレット端末から選択できる機能がほしいと願わない日はない。

頭髪に金属の刃がスゥと忍び込む。
ほどよく重みがあり、ヒンヤリと冷たく、普段クーポン券を切り抜くためだけに使用している鋏とは全くの別物。

「やばい、やられる」

そう思ったときにはすでに遅い。
黒く細い毛が純白のケープの上に散らばっていた。

私は慄然とした。
このまま彼の暴挙を許せば、明日の朝職場で同期に笑われるのはこの僕である。

そもそも、いったいいつの間にこんなカーテンみたいな布切れを着させられた?まったくもって記憶にない。
おまけに何なのだ、この人を寝付かせるためだけに開発されたかのような椅子は。
もしや、この理髪店は僕を殺そうとしているのではないだろうか。

理髪店に入った瞬間、店内の空調に忍ばせた薬品が人間の正常な判断力を奪い、記憶を操作して我々は言いなりにさせられている。
誰もがそのことに気づかず、客と思しき数名はただ髪を切っていると思い込んでいる。いや、思い込まされている。
そうか、そうだったのか。

今頭上で刃物を我が脳天に突き立てている男。こやつははじめから僕の注文など聞いてはいなかった。
髪を切るふりをして、一発で確実に仕留めるための前準備をしているに過ぎない。

おそらく頭蓋のどこを突けば一発で私を仕留められるのか、吟味しているに違いない。

なんてことだ。僕はお金を払って殺されに来たわけじゃない。
逃げねば。童貞のまま命果てるわけにはいかない。

頭上の殺人鬼が鋏を入れた回数は、まだ十にも及ばない。いける。まだ間に合うはず。
ひとつまみの勇気を胸に、僕は声を上げる。

「あの・・・」
「はい、どうされましたか?」
「あっ、いえ・・・すみません」

なんということだろう。
コミュ障が仇となり顔を見ていなかったため気づかなかったがこの男。

我が頭上で活殺自在に刃物を振り回す殺人鬼は、見るからに僕と同年代。
しかもこの眼。僕はこの眼を知っている。童貞の眼だ。

童貞の眼は分かりやすい。
現実に辟易としていて、それでいて夢見がちで、なにより活力に乏しい。

「こんなヤツが首領のワケないじゃないか・・・」

彼はおそらく末端の構成員。
つまり族にとっては無用の長物。世間に溶け込むため、体良く雇われたピエロにすぎない。
下手なことを口にしてしまえば、コヤツもろとも首領(店長)に殺されてしまうだろう。

そもそもコイツの髪形はいったい何なのだ。何ヘアーと形容すれば良い?
オシャレ感を醸すため茶髪に染めているようだが、まるで合っていない。刺身にケチャップをかけるほどのアンマッチ。

間違いない。こんな残念童貞がスタイリストになれるはずがない。
こいつはエキストラとして族に雇われた一介の童貞。おそらく美人と一発ヤらせてあげるという誘いに乗ってしまったのだろう。くそっ、なんて卑怯な!


そうこうしているうちに頭髪は剥かれ、いよいよ仕上げに差し掛かろうという局面。

「一度シャンプーで洗い流しますね」

人を殺める前に手を清める。族の掟だろうか。
そのまま洗面台に頭部を突っ込み、頭皮をわしゃわしゃと揉みしだかれ、最後に頭部全体を洗い流す。

清められてしまった。無念。

「では顔剃りしますねー」

な、なんだと?聞いていないぞそんな話は。

たしかに事前に確認しなかった自分が悪い。
ただ殺人鬼に剃刀を持たせるなど、殺してくれと頼んでいるようなもの。

頸部の大動脈を一刺し。鮮やかな血しぶきが天井に舞い、純白のケールが赤く染め上げられてゆく。

そして白く温かいタオルが顔面を覆った。
そうか、初めに着た純白のケールは死に装束だったのだ。

泡立ったクリームを伸ばすように、僕の頬をやさしく剃刀が撫でる。
いま、僕の命は殺人鬼が握っている。生かすも殺すもすべてが自由だ。

 

興が削がれたのか、奇跡的に顔剃りから生還した僕。
「こんな感じでいいですか?」

後頭部の頭髪を鏡越しに見せられるが知ったことではない。

これは「貴様が拝められる人生最後の後頭部だ」という婉曲表現だろうか?

そもそも自分で見えない範囲だからプロに頼んでいるのだ。

一刻も早くここから抜け出さなければ。
ふたつ返事でOKを出して、急いで会計に向かう。

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

ポイントカードをもらった。
脱兎のごとく飛び乗った電車の中で、息せき切る自分を落ち着かせながらひとつだけ押されたスタンプを眺めていた。

どうにか自宅に辿りついた僕は、そのまま洗面台に向かう。
そして鏡台に映る自分を見つめる。まだ生きていることをたしかめるように。

心音が、脈打つ首筋が脳にまで響いて、はじめて実感する。僕はまだ、ちゃんと生きている。

安堵する僕の顔は、少し笑っていた。
その少し上、ふと眉毛の上に目をやる。


髪を切った。そしていつも失敗する。