1年前の書き損じブログの処理方法
ふとパソコンを漁っていると、「あああああ.txt」という謎のテキストファイルを見つけた。開けてみるとこれまたびっくり。ブログ記事用に書き溜めていた文章が現れたのだ!
こ、これは神の啓示か・・・?などと思い内容を読むのだがとてもとてもとてもつまらない。なんだこれ。一ミリも面白くない。
いつ書いたものだろうとプロパティを覗くと、最終更新が2018年9月ということで、ちょうど1年前に書かれたらしいと判明した。
そう、何を隠そうわたくしその文章を自分で書いた記憶がまるでないのである。むしろつまらなすぎるため、他の人が書いたものであって欲しいと願っているレベル。
だが文体というか書き方の癖はごまかせないもので、「あ、これ自分の文章だな」というのは数行で理解できた。
なのでどうだろう。最近ネタもないことだし、この際思い切ってそれを公開してしまおうではないか。なに、1年前の自分の没記事が読者にどう捉えられようと、まったくダメージはないしむしろ微笑ましく見守れるレベル。
いっそこれをバネとして今後のブログ活動の反面教師に拵えれば、より良質な記事を書く手助けになるかもしれない。
という詭弁を脳内で完結させましたので、以下その文章を載せます。
長い割に面白くないです。もう一度言います。面白くないのにけっこう長いです。
―――――以下、本文―――――
「タイトル:嫌われるミュージシャンの特徴」
しばし「好き」の反対は「無関心」というが、対義語はどう考えても「嫌い」である。
けれども、この世に0か100かで語れることなど皆無に等しく、まして言葉尻を捕らえる現代においては殊更言うまでもないだろう。
だから「好き」は「嫌い」も包含しており、その強さやベクトルのちょっとした違いなんかでファンとアンチの対立構造が生まれるんじゃないか、なんて個人的には思うのです。
YouTubeのコメ欄を戦場としたアーティストへの賞賛と悪罵なんて後を絶たず、あまり感情的でない性格の僕からすれば、よくもまぁ皆さん躍起になってドンパチできますね。と素直に感心してしまうのだが、ファンがアンチコメをスルーできないのはそれだけ思いが強いからなのでしょう。
対象が何であっても、熱を傾けられる何かがあるというのは本当に羨ましい。というか妬ましい。
たとえば僕が音楽について記事を書き、できあがった文をいざ見てみると本当に淡白な仕上がりになっていて、多分50年後にはAIが僕よりよほど上手な文章を皆さんにお届けしているのでしょうね、と勝手に妄想して勝手に落ち込んでいる。
音楽ライターとか腕のあるブロガーの文章を見ると、こりゃ敵わないな、なんて思ってしまうのです。
何が違うかというと、もちろん音楽的素養とか専門用語の多さもあるんだけど、やはり熱量。
読んでいてすごく気持ちがいいのは「これを書いた人は本当にこのアーティストが好きなんだな」と思えるからで、そういうのは一朝一夕に養えるものではないし、文才ではなく感受性の問題。
だから本当はrockin'comの音楽文というサイトに寄稿してみようか、なんて一時考えたときもあったが、今のままでは無理でしょうね。
なので僕は今の僕らしく、アホ丸出しの駄文をひたすら書き殴っていこうと思う。
今回筆を執ったのは、眠れない夜にふと「嫌われるミュージシャンの特徴」って何だろうと気になったため。本当にただそれだけ。
というわけなので、金にも鉛にもならないがこのブログを通して上記の題について考察をしてゆこうと思う。
まずはじめに、嫌われるミュージシャンとはどういう系統なのか、それをあらってみる。
以下に書き記したのは個人の見解によるものであり、独断とか偏見とか恨みとか嫉みとか色々混入していますので悪しからずご了承願います。
- 嫌われるミュージシャンの特徴
- 量産型の同じような曲調ばかり
- キャラクターが作りこまれている
- 歌詞が浅い
- ハイトーンを駆使しまくる
- 歌が下手
- ファンにミーハーが多い
はい。
・・・ついに言ってしまった。これまで何となくみんなが思っていたけれど口に出したら殺されるからあえて口を閉じていた事実に首を突っ込んでしまった。
けれどもここまできたら引き下がれないので、以上の6つを順に見ていくことにします。
- 量産型の同じような曲調ばかり
これはね、アーティストやファン側に言い分があるのはわかる。要するに、「シングルだけじゃなくてアルバム曲も聴け」と言いたいんですよ。
シングルというのはタイアップした曲が多く選ばれるので、必然的にタイアップ先が求めている曲調=量産型みたいになってしまうんだよね。
だからファン以外の人からすれば「コイツらまた同じような曲出してるよ」となるんだけど、そうではないんだよと。全然違う曲調もできるんだよ、と言いたいけど、アンチはアルバム曲なんて聴かないので意味ないんだなこれが。
なのでこれについて争っても無意味な気がする。
- キャラクターが作りこまれている
テレビで急にイキりはじめる奴。
某かの被り物をしている人。
インタビュー記事で痛すぎる言葉を熱く語りだす人。
独特のファッションセンスで浮世離れした雰囲気を出そうと頑張っている人。
人間というのは、否、日本人というのは島国としての収斂進化を遂げたので、ある枠から逸脱した存在というのは排除したいと思う人が多い国民性である。
関係ないように思うかもしれないが、女子の就活生はそのほとんどが画一的なスカートを穿いており、それは「大勢の中の一人でいたい」という同調心や安心感を求めての行動であると推察される。
なので、特殊なキャラクター性を有するバンドとかいきなり出てきたら何となく嫌いになるでしょ。そんな感じですよ。
もしかしてビリーアイリッシュがいまいち日本でウケないのはそういう理由?違うか、違います。
しかし、だからといって受け手側(リスナー)に非があるなんてことはなく、おそらくアーティスト側もアンチが増えることに対して理解はあると思う。
そういった覚悟がある人以外は自らに変な属性を付加するべきでないし、それでいて「批判するな」と言うほうがさらさらおかしい気もするのです。
- 歌詞が浅い
まぁこれはアレだ、恋愛系でしょうね。
歌というのはたぶん言葉にできないものとか文字にし難いものを表現する媒体のひとつだと思っていて、そういう面で恋愛というのは音楽と非常に強い親和性を有しているのではないか。
つまり、恋愛とは日常において感情が最も揺れ動くシチュエーションのひとつなのではないかと。
まぁ僕は実体験が伴わないので知らないんだけど。
とはいえ、「なんかよくわからないけどモヤモヤした気持ち」とか「脳みそが溶けそうなほど幸せな気持ち」とかって言葉にするのが難しく、結局先人たちが用いたフレーズに頼らざるを得ない。
例をあげると殺されてしまうのであえて伏せるが、なんとなくお分かりいただけるでしょうか。
- ハイトーンを駆使しまくる
「最近の若いバンドはキノコで女みたいなナヨナヨした金切り声ばかりだな」とよく言われている。僕が言っているわけじゃない。勘違いするな。よせ、ナイフをこちらに向けるな。
まぁ、でもたしかにボーカルが高い声のバンドは多い。高い声が出る=歌がうまいという方程式は成り立たないが、まぁ音域は広いほうが歌える曲の幅の広がるし、そう悪いことばかりではないでしょう。
ではなぜ嫌われるのか。理由のひとつは、嫉妬であると思う。
誰だって歌がうまくなりたい。この場合の「歌」というのはみんながよく聴く歌、つまり流行歌なので、必然的に若手バンドの曲を指すことが多い。
そんな「王道」が全部ハイトーンばかりだったらイヤになるのも当然。カラオケ行っても歌えないんだよ!
ヤバTが「流行りのバンドのボーカルの男みんな声高い」って歌っている声もそれなりに高いんだよ!
するとそんな思いがだんだんと「とりあえずサビでハイトーン出しておけみたいな安直さが嫌い」とか「ただ張り上げているだけだろ」みたいな愚痴に変わってゆく。
それ以外は単純に趣味嗜好の問題で、「高いだけで声が細いから嫌い」とか「耳がキンキンしてうるさい」という、もうこれは合う合わないの話ですね。
- 歌が下手
「歌手なんだったら歌がうまくあれよ」という言い分はわかるが、やや的外れなことを言っている気もする。
そもそも巧拙とは個々の主観に委ねられるものであり、書籍「嫌われる勇気」の内容を曲解すれば、そんなん個人の力ではどうすることもできひんやんというお話。
音程が合っているからうまいというわけではなく、外れることが多いから下手だと思うのもまた、どうしようもなく個人差でしかない。残念ながら。
よってこの議論は不毛。さようなら。
お気づきだろうか。だんだんと書くのが面倒臭くなって、各項の文章量が徐々に減っていることに。
まぁいいや。ラスト。
- ファンにミーハーが多い
これはねぇ。僕みたいに何の取り柄もにくせにプライドだけは一丁前な男に多い気がするのだが、もういまさら公然とback numberが好きなんて言えないのよ。
「RAD好きなんだ、今マジで流行ってるもんねー」なんて返されたらおそらくそのまま清水寺までダッシュして舞台から飛び降りた帰り道すがらタイに行って性転換手術します。
きっと屈曲したアイデンティティというか、もうちょっと生意気な表現をするとアウトロー精神というか、そういうものが邪魔をして物事の正しい評価ができなくなってしまう。
そういう人は、きちんと吟味せずに「タピオカなんて何がいいの?」とか「出たよインスタ映え」などとその他大勢を嘲笑うことで自我を保っている。
けっきょくのところ、頭ごなしに否定する人というのは、それらを深く知らないという意味でミーハーと何ら本質が変わらない。
そのため同族嫌悪という表現でもあながち間違いではないかもしれないが、月と太陽みたいなもので、基本的には背中合わせなのである。
まぁ要するに、陰キャと陽キャの関係性みたいなもので、陰キャたちが見つけた原石を陽キャが拡散させることで世の中が回る。
お互いに矜持があって意地があるから決して交わることはないのだが、そういうつながりはある。
だからその中間くらいが最も平和で、逆にそれ以外は売れようが売れまいが批判する人がいるということ。
それぞれのスタンスのファンがあってこそのミュージシャンだとは思うのだが。
―――――以上、終わり―――――
というね。
いやぁ、もうすげぇよ。すげぇとしか言いようのない。
すげぇ、どうしようもない。なぜこれを書こうと思ったのか分からないし、なぜ謎のフォルダに保存したのかも分からん。
しかし公開しなかった理由は分かる。つまらないと判断したのだろう。おそらくつまらないけどたくさん書いたから捨てるのが勿体なく思えてきて、とりあえず保存しておこうとでも考えたのかねぇ。
とはいえ自分の文章を客観視する機会というのはあまりなかったので、そういう意味で貴重な体験になった。あとタピオカが去年の今頃からすでにブームになっていたのは新たな発見だった。
もう二度としません。
映画『ロケットマン』はミュージカルなのかという疑問
映画を観て、うろ覚えながらも、ふとこんな話を思い出した。
エルトンとバーニーは、とある部屋にいた。そこに初対面のプロデューサーが到着し、彼らの楽曲について様々に褒め讃えたあと、
「君の声は素晴らしいよ」
エンジニアはそう言って、バーニーに向けて握手を求めたのだった。
(追記:ガス・ダッジョンというプロデューサーのことです。)
どこかのテレビ番組から得た知識なのだが、いかんせん記憶力に乏しいのでかなり間違っているかもしれない。
だが、エルトンとバーニーを並べたとき、プロデューサーは迷うことなくバーニーをミュージシャンと思い込んだ。
つまり、それほどにエルトンはあまりにも普通すぎた。
天才と言われた一人の男も、もとはただのありふれた男に過ぎなかった。
フレディマーキュリーもプリンスもデヴィッドボウイもマイケルジャクソンも、スターと呼ばれる人間は等しくみな孤独だったという。
誰も手が届かないほど遠い場所にあり、輝いているから「スター」と呼ばれるのだろうが、星と星の距離は果てしなく遠い。そんな含意もあるのだろうか、なんて考えた。
しかし孤独とは、得てして周りに誰かがいるときに使われる言葉である。
フレディにはジムやメアリーが、そしてエルトンにはバーニーがいた。
そんな僕ら凡人のような幸せを、この映画を通じて見ることができた。
映画の感想にうつる。
率直に感想を述べるならば、とても良かった。
久しぶりに時間を忘れて見入った作品だったし、最初の5分の流れは僕の映画史上もっとも意味が分からなかったし、タロンエガートンは歌がうまかったし。
まさかクロコダイル・ロックを聴いて涙腺が緩む日が来ようとは夢にも思わなかった。
正直なところそこまで熱烈なEJのファンというわけではなかったので、エルトン・ジョンが芸名であったことや、ステージ上でド派手な衣装を纏っていた理由なんかについても知ることができた。
なぜタイトルが「ロケットマン」だったのかも分かったし、そういう意味でも実り多い時間であった。
当初、これは「ミュージカル映画」と聞いていたのだが、はたしてこれはミュージカル映画なのか。観終わった後で疑問に思った。
というのも、この映画ではエルトン・ジョンの20を越える楽曲が歌詞を変えることなく登場し、シーンに応じて効果的に使われていたからだ。
もちろん、心情を音楽に乗せて歌い上げる映画は、紛うことなくミュージカルである。
けれども、映画の製作にあわせて歌が作られるのと、歌ありきで映画が作られるのとではまるで違うような気がするのだ。
これはあくまで個人的意見というか推論に過ぎないのだけど、この映画を製作する当初、ミュージカル映画にするという方向性は存在しなかったのではないだろうか。
もし僕が誰かの人生を映画にするならば、間違いなく「ボヘミアンラプソディ」のようにひとりの人間を追求し、ドキュメンタリーや再現ドラマのような形式で進めただろう。
だがこの映画のばあい、曲があまりにエルトンの過去と重なりすぎて、ひとつひとつのシーンとリンクしすぎて、心情を曲に乗せて歌うミュージカルが採用されたのではないだろうか。
そのくらい1曲1曲が彼の内省的で孤独な心境を表現していたし、もしエルトン・ジョンの曲を聴いたことのない人がこの映画を観たら、映画のために書き下ろされた曲と思うに違いない。
エルトンは、バーニーの詩が最もイマジネーションが湧くと述べている。
また、エルトンとバーニーは50年以上喧嘩をしたことがない仲だというが、それはつまりそういうことなのでしょう。
そしてなにより、劇中歌のメロディがなんと素晴らしいことか。
エルトン・ジョンの曲は、表現は悪いが引っ掛かりがないというか耳馴染みの良さが傑出しており、主役のようで引き立て役にもなれるという万能感たるや。
正式なアナウンスはまだだが、来年の春頃にファイナルツアーで来日公演をおこなう予定なので、その際はぜひもなくチケットを取って生の音を体感したいと強く思う。
さて、最後にこの映画がヒットするかどうかについてだが、「ヒット」という言葉がどこからどこまでを指すのか、ファジーすぎて難しいところである。
が、ひとつ分かったことがある。
帰り際、映画館の出口直前でおじさん2人組が「大人の映画だったな。ま、リピートはしないけど」と語らっていた。僕も全くの同意見である。
この映画は伏線もないし特別ゲストがカメオ出演しているわけでもないし、最後に大感動の幕切れがあるわけでもない。
だが、一見の価値はある。
というか、「Your Song」しかしらなくても楽しめるし、なんだったらエルトン・ジョンを知らなくても十分に楽しめる。
伝記の良いところとミュージカルの良いところがマッチした傑作であるので、是非一度ご覧いただきたいと思う。
ついでに感想をコメントでいただけると嬉しい。そんな、他の人の意見がとても気になる映画であった。
ハイレゾのストリーミングサービスは日本で浸透するのか問題
強いて言うならば、「ロイヤルホストとサイゼリヤ、どっちにする?」というおはなしに近しいかもしれない。
あるいは、100均で買った什器と、ニトリで購入したお皿との違い、と表現してもよいのかもしれない。
このあたりはあくまで推測であり、主観であり、偏見でもある。
なので、そういう価値観を持っている方もいらっしゃるのね、フフンッ。と鼻から息を漏らしていただければ幸甚至極。
何を言っているのかわからないですね。一番分かっていないのは僕です。
しかし「分からない」というところにこそこの問題の本質があると思っていて、まぁ要は「ハイレゾのストリーミングサービスってどうなのかな?」という題について今回述べてゆきたい。
ハイレゾというのは平たく言うと音質の良さを売りにした音源のことで、ヘッドフォンやイヤホン等にいくらか金銭を投入した経験がある方ならもちろん、そうでなくても何となく聞いたことがある単語ではないだろうか。
そんな「かなりいい音」が、「それなりにいい音」のSpotifyとかApple Musicのようなストリーミングサービスと競合してサバイブできるのでしょうか。そういう話。
文頭に記した脈絡のない世迷言の真意は、これで皆々に届いただろうか。
ちなみに今回の記事で、僕は24bitとか192kHzだとかFLACだとかDSDだとかを使うつもりは毛頭ありません。
あくまで恣意的で定性的な側面ばかりを突いていきたいと思うので、理系の方はいじめないでください。かくいう僕も理系なんだけど。
- ハイレゾ配信について
さて、本題に入る前に僕がこの記事に着手しようと思ったきっかけ、というか端緒はこのニュースである。
読んだ。へぇと思った。
AmazonといえばGAFAのひとり。ちがうな、一員。いや、一翼?
そしてご存知の通りAmazon Music Unlimitedとかいう厨二心をくすぐるネーミングで、現在までもストリーミングサービスを展開している。
そんな天下のAmazonさんが、今夏ハイレゾのストリーミングサービスを開始すると言いはじめたのだ。
なんという唐突なニュースだろうか。
そして僕は、かなりの驚きをもってこのニュースを受け止めた。
というのも、ハイレゾのストリーミングサービスは、日本で、否、世界でもかなりニッチで採算が合わないビジネスであるという認識を抱いていたからである。
ご存知の方も多いかもしれないが、実はこれまでに日本ではいくつものハイレゾ配信サービスが誕生しては、瞬く間にその一生を閉じるという繰り返しが起きていた。
およそ僕の知る限りでも、クリプトンのHQM Storeやグルーヴァーズジャパンのgrooversは今年6月に、JVCネットワークスのVICTOR STUDIO HD-Music.などなど。
どれも決して小さくない会社である。そんな強肩揃いの兵たちが立て続けにサービス終了したとあっては、そんな市場に新規参入などリスクが高すぎてそう易々とチャレンジできるものではないだろう。
いや、小さくない会社というのは当たり前である。
音源を扱うため利権関係に強みがあるのは必須。また、ハイレゾ音源は1曲あたりの容量が大きいため、それを快適に配信するための格納庫がほしい。零細にそんなシーズはないのでしょう。
ちなみに現在残っているのは、SONYのmoraやe-onkyo musicやOTOTOYなど。その他にもあるが、数えるほどしか存在しない。
moraは今年秋からmora quolitasというハイレゾストリーミングを開始予定だが、もともと今年春に開始する予定が延期されたことからも、ハイレゾストリーミングの難しさが窺い知れる。
- で、なぜAmazonが?
考えてみれば、だからこそのAmazonなのかもしれない。
Amazonの強みは、端から膨大な顧客データがあり、新規サービスとて改めて会員登録をする必要がないこと。
さらには、すでにストリーミングサービスを展開していることから、宣伝のしようによってはUnimitedの顧客を横流しできる可能性があること。
まだまだあるだろうが、パッと思いつくだけでも参入障壁が上述した他社よりも低かったことは明らかである。
それから、これはあくまで個人的な意見だが、Amazon Music Unlimitedは正直使いたいと思わない。
実際、競合の中でもLINE MUSICやSpotifyなんかよりも利用客数が少ないんじゃないのかな。Amazon Prime Musicは別として。
それはアプリの作り手本位のユーザビリティもそうなんだけど、邦楽の曲数的な意味での評判があまり芳しくない。
僕は洋楽メインなのであまり気にはならないのだが、国内のサービスとして国内の楽曲が少ないのは致命的だとも思う。
そんな現況を打破するための一案として、ハイレゾ音源ストリーミングは大きな突破口になる気がしないでもない。
また、来年にはオリンピックがある。
ちょうど有機ELや4Kのテレビに買いかえる人が続出するこの時期に「音質の良さ」を前面に出したサービスを開始するのは、かなりタイムリーで効果があるのではないか。
考えすぎかもしれないが、このサービスにより「画質の次は音質だ!」とネットワーク機能付ホームシアターやら高級ヘッドフォンやらが売れるかもしれない。
言わずもがな、Amazonで。
- そもそもなぜハイレゾ?
そうやって屁理屈と理想論と希望的観測を並べても、どうしたって気になる点がある。「なぜハイレゾ音源?」という点だ。
Amazonはトレンドの嗅覚がすさまじいというか、むしろAmazonがトレンドを形成していると評しても過言ではない。
電子書籍はKindleが一般的だし、スマートスピーカーといえば今やAlexaで、ネットで映画見るならPrime Videoでしょ、と。
そんな時代のリーディングカンパニーことAmazonが、今度はハイレゾの普及を虎視眈々と狙っている。いや、実際はもっと別のところに目的があって、あくまで起爆剤に過ぎないのかもしれない。
だが、Amazonはいつだって本気である。
先日よりAmazonはAudibleというオーディオブックを売り出し始めたが、そのお金のかけ方が尋常じゃない。
ハイレゾにいくら投じているのかは知らないが、天下のAmazonが鉛筆転がしのような博打に走るとは思えないのである。
であれば、少なくともAmazonから見て「ハイレゾは次に来る!」と見越しての戦略だろう。
たしかに僕はここ数年でハイレゾにハマった身だし、身の回りでも「350円のハイレゾ音源買ってみたー!」という人や、今年も東京で開催されたOTOTENの入場者数が増えているという話も聞く。
そのため、Amazonが参入するには打ってつけのタイミングであることは疑いようがない。
- でも個人的には否定的な立場
しかし僕個人の見立てでは、ハイレゾが流行るとはとても思えないのである。
理由は簡単で、お金がかかるからである。
僕はハイレゾ音源を聞くために昨年なけなしの貯金を崩してアンプとスピーカー等に20万円ほど費やし、理想のオーディオ環境を手に入れた。
だがこの金額はかなり安いほうで、本気でオーディオを組もうとすれば「学問のすゝめ」が100冊あっても足りないだろう。
もちろんヘッドフォンであればそこまで金銭をかけることなく、快適なミュージックライフが送れるかもしれない。
しかし1曲あたりの容量がかなり大きいハイレゾを恒常的に聴く行為は、快適なWi-Fi環境と膨大なストレージ容量を兼ね備えたときのみ有効で、おそらく適用される「初月30日間無料」から後も継続する人の割合は果たして如何様なのか。
また、常にヘッドフォンやハイレゾ対応のオーディオ環境で聴くならまだしも、スマホのスピーカーでハイレゾ音源を流したところで、もはやYouTubeの音源と何ら変わらない。
仮にちゃんとした設備を整えたところで、相当に耳の肥えた人でなければ楽しめないことも多いだろうし、なによりストリーミングとは「いつでもどこでも」音楽を聴けることが売りであるはずだが、それがハイレゾでは破綻しかねない。
そして極めつきは月々2000円という金額。
たしかに、ハイレゾ音源を購入しようとすれば1曲350円ほどするので、単純計算で6曲聴けば元が取れる。
だが、そこに価値を見出す人がどれくらいいるのか。
これは100人中80人以上が~みたいな話ではなく、100人中1人が興味を持って、そのうえで課金をしてくれるか、という話。
いずれにせよ、もし無料期間があるならばぜひとも使ってみたいし、そこで価値があると判断すれば課金することも吝かではない。
なにより、僕は数年前ハイレゾ音源に感動してからどっぷり沼にはまっているタイプの人間なので、基本的にハイレゾの社会的浸透はウェルカムなのだ。
だからこそ、世間的にハイレゾ音源がちゃんと普及してくれるのかが心配でならない。
いずれにせよAmazonという大きな企業がこの業界に足を踏み入れた結果、どのような結末になるのかはとても興味深いので、最後まで見届けたいと思う次第である。