けっきょく駅のホームではどこにいるのが正解なのか
たぶん、男には避けられない戦いというものがあると思う。
きっと女の人にもあるのだろう。
そして男の場合、その相手というのは己自身の場合が多い。
よくアスリートの人たちがインタビュアーに「最大の敵とは?」なんて訊かれた日に「最終的な敵はやはり、自分自身ですかね☆」と答えているが、まさしくそれ。
おとこなんてプライドの塊みたいなものなので、理詰めしていきながらも最終的には自分が納得するかどうかで物事の評価を下すことも多い。
なのである意味では単純だが、それゆえに苦労することもしばしば。
たとえばこんなとき。
僕は毎日電車に乗っているのでどうしたって電車ネタの割合が大きくなってしまうんだけど、ごくたまに駅のホームでぼーっと突っ立っていると、スマホか何かに夢中になっている人が僕の後ろに列をなしてしまうことがある。
あれがめっちゃ困る。僕の精神を著しく損壊する拙劣な行為なのである。
僕はきほんてきに、電車には一番最後に乗りたい主義であるから、新幹線でもなければおおよそ列に並ばないし、よって自ら先陣をきって列を形成するはずがないのである。
一番最後に乗るというのはつまり、乗車後は扉にいちばん近い人間になるということで、だからもっとも降車がスムーズな立ち位置であるということ。
僕は予め計算のうえ、降車駅で出口にもっとも近い扉から乗車するようにしているので、まさに名実ともに改札口のトップランナーなのだ。
けれども他人とはそんな僕の心積りなんて知る由がないから、いわば「そこに山があるから」的なスタンスで、そこに僕が立っているから、と軽々しく列を作ろうと画策してくる。
まさかコイツらは私を嵌めようとしているのだろうか。
おまけにテキトーな場所に立っている僕のあとに列を作るだけあって、その人はスマホや音楽などに集中していて基本前を見ていない。おまけにイヤホンないしヘッドフォンをして外界の情報を完全シャットアウト。いやもう帰れよ。
もはやディズニーランドの待ち時間90分コースと同じ要領で僕の後塵を喜んで拝んでやがる。
極悪非道な所業である。
あえて数字の書かれた地面から離れた場所でスタンバっていたのに、その配慮を踏みにじるかのごとく彼はずかずかと僕のテリトリーに侵入しようとするのだ。
これに関して何が一番イヤなのかというと、どうして僕がここまで心をざわつかせなければならないのかと腐心してしまうという、その一点に尽きる。
間違いなく僕は悪いことはしていない。だってちゃんと紛らわしくないように地面の数字からも黄色い線からも離れているし、なんだったら電車が来る方向と間逆を見ているし。
それなのに、どう考えても僕の後ろに並んだやつが悪いのに、なんだかとっても申し訳ないことをしている気分になる。それがたまらなく鬱陶しい。
けれどもまだひとりだ。僕の後ろについている人は、まだ幸いなことにまだたったの1名。
それにまだ電車が来る気配もないし、後ろのやつも偶然スマホを見ていて立ち止まっただけ、という可能性がないわけでもない。
ならば事態が深刻になる前に、「おれは先頭じゃないぞ」と示すべくウロウロしてみようか。それが一番効果的なのではないか。
そう決意していざ実行しようとした矢先、ふとこんな推測が脳裏を掠める。
「僕が動いたら、電車が来たと思って後をついてくるのではないだろうか」
後ろの人は、重ね重ねスマホを見ているので、突っ立っているだけの人間の後ろに並んでいるという現状をまるで把握していない。
その理解もしていない状況で、つまり列に並んでいるという認識だけを持った状態で、いきなり前の人間が動き始めたらどうするだろう。
そのこたえは明白だ。電車が来たのだと思ってついてくるに違いない。特に音楽を聴いて外の音が聞こえないような状態ではなおのこと。
だとしたら迂闊に動くのは危険である。
もし仮に後ろの人がついてきて、ホームを回遊でもしてしまった日には、仲良しカルガモの親子ごっこみたいな変態羞恥プレイを公衆の面前でしてしまったことになる。僕の経歴に傷がつく。
おまけに昨今の物騒な世の中だ。後ろの人が恥ずかしさのあまり僕を線路に突き落とすという行為が起きてしまった場合、2時間程度電車が遅延することにもなりかねない。僕は悪くないのに!後ろの人間が悪いのに!となどとのたまっても、周りから白い目で見られて駅員さんにも渋い目で見られ、警察が来たらもう僕はおしまい。それでも僕はやるマゲドン。
というわけで、社会的影響が大きくなる前にケリをつけるのが本望である。
なんて思っているうちに、悪夢というのはさらに加速するものである。
ついに恐れていた事態、2人目の行列が完成してしまう。
おまけにそいつもスマホとイヤホン。お前らはそんな装備で電車に乗ってスパイ養成所にでも行くんか。
どうしてきちんと番号が書かれたところに並ばんのかね。
むしろちゃんと並んでいるところにはおばあちゃんがひとりしか居なかったりするわけで。そんなに僕の後ろが好きなら別にいいんだけど、ここに並んでいても扉、開きませんよ?
けれども自分に加えて見ず知らずの2人の運命まで半強制的に背負わされた僕は、結果的に責任が重くなるという現象が発生してしまう。
本来の正しい列に並んでいたら、もしかしたら空席に座れたかもしれないという後ろの人間の機会費用を奪い、あまつさえプライドを傷つける行為こそ悪質。しかも第三者的視点からするとおそらく未必の故意に見えるだろう。
もうここまでくると、逆にきちんと番号の前に並んでいなかった僕が責められる立場になってしまう。数の暴力。集団って怖い。
そうこうしているうちに、こんどは赤フレーム眼鏡のサラリーマンあたりが「お?ここ人気の列じゃん」的なノリで後ろについちゃう。
居酒屋じゃねえんだよ。空いてるところ行けよマジに。「おっ、大将今日もやってる?」みたいな顔で列増やしてるんじゃないよ。
コイツはただのアホだから気にしなくてもいいんだけど、アホは結構頻繁にチラチラ前を見てくるものだから、「あれ、なんで先頭のやつあんな頓珍漢な場所に並んでいるんだ?」などと怪訝な表情を向けてくる。
アホのくせに鋭いとは、まったくもって度し難い。いや、気付くのが普通なんだけどさ。
ここまで来たら、もう後ろの3人をどうするのかというのは大した問題じゃなくなり、自分自身がどうするかというほうが大きな課題となってくる。
だって考えてもみてほしい。
客観的に見て、僕と後ろの3人のあわせて4人のうち誰が一番間抜けに見えるかというと、やはりどう考えても僕である。
後ろのやつは、先頭を信じて並んでいるだけのいわば取巻きみたいなもので、僕の立ち位置はその元締め的な、アホ御一行の幹事みたいなものであろう。
たとえるならば、アーティストの出待ちをするために会場に駆けつけた最初のやつが僕。そして後ろの3人が、そんな僕を見て勝手に付いてきた人たち。
けれども会場を間違えてぜんぜん違うところに来てしまっていた、みたいな、そういう哀れさがある。
するとやっぱり悪いのは僕だし、後ろのやつはとりあえず僕に向かって怒りの感情が湧くのが普通だし。ってなにそれ理不尽。
てな事情があり、僕は最近反対車線側で待つようにした。
少なくとも僕が住む田舎では、同じ時間に反対方向の電車が来ることは稀なので、これで結構乗り切れることが多い。
まぁもっとも、反対車線側で突っ立っていたとき、後ろに人の気配を感じた日には、僕の精神がどうなることやらと想像するだけで身震いを禁じえないわけだが。
ファジーな言語
「お金がほしい」というブログ名でくだらない文字の羅列を書き続けること早幾年。
多少は長文記述にもタイピングにも慣れてきて、その代わりに中身の面白さと更新頻度は半減して。
開設当初を振り返ると、まさかこんなに続くとは想像してなかっただろうし、かといってやめるつもりも更々なかったし。
早い話が、落としどころを見つけられずにのうのうと続けてきた結果がこの有様、というだけの話だろう。
まぁでも、もしかしたらこの地球のどこかに当ブログの更新を待っているような奇特なお方がいるのかもしれないし?
一応アクセス数は停滞しているように見えて地味に上がっているし?
といった具合でどうにかモチベーションを保ってやっております。
でもやっぱりね、これを言ったら負けだと思うけど、このブログって名前が悪いと思うの。
だってほら、「お金がほしい」よ。
これって人類のほとんどが心のうちで思っていることだから、言うなれば「地球平和」とか「男女平等」みたいなニュアンスに近い気がする。
そんな普遍的な思想と、実際のコンテンツの内容が全然噛み合ってない。ブログ名と記事が喧嘩している。
せめて「お金がほしい」という記事のタイトル名だったら分かるんだけど、ほら、ブログタイトルに「お金」という文字が入っていると怪しい悪徳商法のプロ集団サイトかと思われそうじゃない。
それだけでかなり損をしている。
というか今ふと思ったのだが、何気なく使っているこの「お金がほしい」って外国人にとって結構難しい言葉なのではないだろうか。
というのも、日本人が英語を学習するとき、よく5文型(SVCとかSVOCとか)を基礎として叩き込まれるのと同じように、おそらく日本語を学習している外国人も同じように文型を学習するのだろう。
そして上記の型を「お金がほしい」に適用させようとしたとき、多分これは「(S)OV」の型になる。
一般動詞の場合、日本語と英語は大概動詞と目的語(格)が反転するので、英語で言う「SVO」は日本語で言う「SOV」と同義。
そして英語が説明的な(記述的な)言語であるのに対して日本語は空間共有的な(会話的な)言語であるため、しばし主語が失われる。
「お金がほしい」というのも本来ならば「私はお金がほしい」と書くべきところ、日本語という言語にとって「私は」という人称は不要であり、なくても意味が通じるため排除されている。
ちなみに話は逸れるが、スペインでは日本語と同様に私(Yo)や彼女(Ella)などの主語を置かない場合も多い。
その代わりに、主体によって動詞を6パターンの活用方法で分けるため、たとえば「今朝草むしりをしていた」という内容の文を書くだけで、そこには主語が誰であるかの情報もある程度含まれていることになる。
反面、英語はかたくなに私(I)とか彼(He)といった主語を排除しない構造なので、ネイティブでも「He don't have…」とか崩して書いちゃうことがないわけでもない。
洋楽の歌詞でも多分「He don't・・・」でヒットする曲はたくさんあると思うので、興味があったらどうぞ。まぁおそらく歌の場合は、文法よりもリズム感や韻を意識した結果、というパターンが多いだろうけど。
本当に話が逸れてしまった。うっかり。
んで「お金がほしい」についての話に戻るが、先述したように「私はお金がほしい」が本来の型ならば、直訳すると「I want money」となる。
ここで僕は思うのだ。
中学一年生にこの問題を出すとどうなるか。
1)次の英文を和訳しなさい:I want money.
おそらく、半分くらいの生徒がこう書くのではないだろうか。
A.私はお金を欲している。
もちろん正解である。
何も間違ったことは言っていないし、文法的に誤っている点もない。
けれども日常生活で使うには、やや違和感の残る表現であることは誰しもが認めることだろう。
この回答を「え、普通に「お金がほしい」でいいじゃん」と思いながら眺める人もたくさんいるはず。僕もそのひとり。そしておそらく、その回答を書いた生徒もまた然り。
ならばその生徒はどうして素直に「お金がほしい」と書かなかったのか。随分回りくどい説明をしていますね。分かりますかこれが奥義「文字数稼ぎ」ですよ。
その答えは皆さんお気づきの通り、「が」という格助詞である。
たとえばこの文型(SVO)と同じフレーズで有名なものに「I have a pen.」というものがあるが、これは「私は(1本の)ペンを持っている」と誰もが訳せるだろう。
それはこの「I have a pen.」が実に教科書どおりというか、「誰が(S)」「どうした(V)」「何を(O)」を律儀に遵守すれば必ず正解できる問題だからである。
翻って渦中の「I want money.」の場合は、自然に訳そうとすると「何を(O)」の部分が「お金が」になってしまう。
教科書的に「~を」で締めくくりたいのに、そしてどう考えても目的語なのに助詞が「が」になってしまう。
おかしい。私は何かを間違えたのだろうか。
生徒は混乱するだろう。
「が」というのはなんとなく、主語のあとに付帯していそうな言葉なのにどうして目的語の後についてしまうんだ!
・・・やはり俺が間違っているのか? 英語を学習して数ヶ月でこの問題に挑んだ俺が間違っていたと認めなければいけないのか?
生徒のペンは上白紙の上で小刻みに震えている。
・・・いや、待てよ。
しかしここで生徒はあることに気付く。
wantにはたしか、「~(物などを)ほしい」のほかに「(~を)欲している」という訳が辞書に載っていたではないか。
「ほしい」に対して「お金が」という構造が鉄壁であるなら、wantの訳を転換させることで打開を図ろうじゃないか!
という葛藤を経て「A.私はお金を欲している。」と書く生徒がいるのではないだろうか。
「いやそんなヤツいねぇだろ」と思う人もいるかもしれないけど、意外といるのよ。塾講師やってたからわかるけど。しかもそれで正解をもらえるの分かっているし。
そういう現象が起きているのもね、おそらくこの「が」が何を意味するかとかどういう役割を持つかとか、そういった日本語を学ぶ機会を設けていなかったためだと思うので(だって僕も分からないし)、今後文部科学省には是非今一度正しい日本語とそのあり方についてのカリキュラムを義務教育として取り入れていただきたい所感である。
あとついでに茶色ってどうして茶色って言うのか気になる。お茶の色じゃなくてうんこの色だろ。これも追加でよろしくお願いします。
って何の話だっけ。
外国人!
そうだ、どうして義務教育の話になった?
まぁいいや。とにかく外国人も中学生も外国語学習を頑張ってくれ。
今思いついた。ピーマンの肉詰めも気になる。
ふつう、肉詰めのピーマンじゃね?
「ハルカミライ」がメジャーデビューするそうで
THE NINTH APOLLOといえばインディーズ界ではかなり有名なレーベルだが、その中でもとりわけ勢いのあるバンド「ハルカミライ」の1stメジャーアルバムがついに本日1月16日に発売された。
別に古参アピするつもりとかは毛頭なくて、純粋に応援していたバンドがメジャーデビューしてくれたのが嬉しい。
2年ほど前にYouTubeを漁っていたら偶然見つけた彼らの「カントリーロード」という曲のMVを見て、直感的に「これは売れる」と思った。これが僕とハルカミライとの出会いであった。
正直なところこの曲をを初めて耳にしたのは、若手バンドの同じような曲調、歌声、展開に辟易していた時期だった。
だから、今では「カッコいいなぁ」と思う同曲イントロのドラムやギターについても、当初は「あーはいはい、いつものやつね」などと軽くあしらい、歌が始まる前に別の動画を探しに行く始末。
おまけに「カントリーロード」という曲名に呼応して、脳内では「カントリーロォォォー テイクミーホォォォォー」というマジモノのカントリーが流れはじめちゃうし。
今にして思えば烏滸の沙汰である。
けれども橋本学のあの声。
「街外れまで~」というあの歌声が聞こえたその瞬間、スマホの画面をスクロールしていた僕の親指は完全に停止した。
目は確かに、別のアーティスト動画のサムネを見ている。
見知らぬアーティスト名と、見知らぬ楽曲と、投稿元の見知らぬ公式アカウント名を、ひたすらにじぃと見つめている。
しかし僕の耳が、脳みそが、突如現れた橋本学の声に対して完全に為す術なく聴き入ってしまっていたのだ。
「なんやねんこの声、めっちゃええやないかい...」
数秒後、ふと我に返った僕の頭には、混乱していたためか普段使わない謎の関西弁が浮かんでいた。
どうでもいいだろうが、僕は自分の声があまり好きではない。
なよなよしているというか、自分で自分の声のことを「着地点のない声」と呼んでいるのだが、つまるところこれは太くて芯のある声に対して憧憬を抱いているということである。
だからそんな僕にとって彼の声はまさしく偏愛するそれであった。
そんなことを考えている間にも、曲はどんどん進んでゆく。
長すぎないAメロ、勢いを失わないBメロ、そしてキャッチーなサビ。
特に僕の心をくすぐったのは、サビにおけるメンバーのコーラス。
これは別に非難しているのではないが、バンドメンバーのコーラスが入る曲というのはきょうびあまりお目にかかれない。
ボーカル以外のメンバーのうち1人が主旋律に対してハモることこそあれ、コーラスとしてメンバー全員でハモるなんてなおのこと見受けられない。
おそらくボーカルと楽器隊の役割が劃然としているだけなのであろうが、正直その現状に物足りなさを感じないわけでもなかった。
だからたまにワンオクの「Cry out」あたりを聴くと、かっこいいなぁとかもっと他のバンドもコーラス入れればいいのになぁとか、そんなことを漠然と考えていた。
そんな矢先のこの曲。
まぁ正直なところ、インディーズらしさ、あまりこの表現は好きじゃないけれど「荒削り」だとか月並みな表現をすれば「勢いと若さ」で保っている部分も多分にあると思う。
おそらくこの曲はライブ化けするタイプで、CDだけを聴いて論じるのはナンセンスというか、的外れなのだろう。
けれどもこうやって横車を押してまであれこれ書きたくなるのは、純粋に嬉しかったからなのだ。
カッコいいサウンドで、カッコいい声で、カッコいい歌詞書いてサビで爆発して。
そのうえ僕の好きなコーラスまで入っているんだから、いやぁ最高じゃないか。
だから僕は思った。
このボーカルはさぞ男前で、おなごにおモテになるのだろう。
自分の経験上、というか先例に倣えば、いい声の人はいい顔面を持っている。
サビまでワンコーラス聴いたのにいまだ再生画面を見ていない僕の脳内には、勝手に苦み走った顔で高らかにこの曲を歌い上げる貴公子的な人物の顔が想起されていた。
そんな杓子定規な想定は、動画の再生画面をポチッと押した直後に一転する。
まぁ何はともあれ見てください。
はじめに思った感想。
顔がうるさい。
これに尽きる。
なんかね、いや、正直ね、でも逆にね、逆に嬉しかったんだよ。
歌い方とか表情とかもう最高にロックじゃないですか。いや違う、パンクじゃないですか。
なんというかこれでは語弊があるかもしれないけど、ボーカルの橋本学を目の当たりにした瞬間、僕は彼らのファンになりました。
ちょうどその頃「センス・オブ・ワンダー」というアルバムが発売されるという情報が出ていて、その時YouTubeにアップされていた「アストロビスタ」や「宇宙飛行士」などの曲も好みにどストライクだった。
そうしたMVをはじめ、webではアルバム収録曲の試聴もできるので、アルバムを購入する踏ん切りがつかない僕のような人間でも充実した音源の数々を耳にすることができた。
その後はしかし、僕個人が忙しくなったのとYouTubeを漁るという行為が減少したこともあり、新曲が出てもツアーの内容が発表されても僕の耳に届くことはなく、たまの数ヶ月に1回程度オフィシャルHPを訪問するぐらいしか気にすることがなくなってしまっていた。
だから彼らのことを「ずっと応援していました!」とか「ハルカミライ大好きです!」というセリフは厚かましいので口が裂けても言えないが、いや口が裂けたら言えないんだけど。
そんな変遷を経て、先日ふと「ハルカミライ元気にしてるかなぁ?」と思って軽い気持ちでHPを見たらメジャーレーベルから初のフルアルバムをリリースするとか書いてあるじゃないですか。
おまけに昨年の10月にリリースされたこの曲。
なにこれめっちゃイイ。
もう一回書いちゃうけどなにこれめっちゃイイじゃないの。
初めて聴いたときは「メジャーを意識した曲かな?」なんて思ったりもしたが、これ。
本人が2018年のベストソングにセレクトしちゃっている。
いや、何が心配かって、もちろんメジャーデビュー進出を標榜して活動を続けるアーティストも沢山いると思うんだけど、レコード会社の意向で本人(たち)の意にそぐわない売り出し方をされて、結果解散みたいな。
そういうパターンって、少なくないと思うんですよ。
特に若いバンドだからってことで過度に心配してしまったんだけど、同曲を自薦するくらいなのだからメジャーだろうとインディーズだろうとどこ吹く風なんでしょう。
それに、本日発売のアルバムのティーザーもYouTubeで公開されていたが、みんな生き生きしているし、なにより楽しそう。
彼らより年下の僕だけど、若いっていいなぁなんて思ってしまう。
なんでもマネジメント業務は引き続きTHE NINTH APOLLOが執るらしく、とてもストレスの少ないメジャーデビューだと思う。
さて、ちょっと長くなりすぎたので、そろそろまとめます。
さきほどから橋本学にしか触れていないが、でも野球がピッチャーに左右されるようにバンドもフロントマンの力量がいちばん重要なわけで。
力量、つまりフロントマンは某かカリスマ性を持っていなければ一般的に言われる「売れる」「人気が出る」という状態には至らないと思う。
今話題のQueenのボーカリスト「フレディ・マーキュリー」は、まさに希代のカリスマであった。
国を越えて時空を越えて人々の心を動かし、揺さぶるような力、それがカリスマ性であるように思う。
そして僕個人の考えとしてハルカミライのボーカリスト橋本学にも、カリスマ性というのは備わっているように思うのだ。
だからきっともっと売れる。というか売れてほしい。
いやむしろハルカミライが、橋本学が認められるような社会になってほしいと、そう切に願っている。
まぁ何が言いたかったかというと、とりあえず皆さんも聴いてみてください。
そして気に入ってくれたら嬉しいです、以上。