お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

世の中色々間違っているような気がしていた。あるいは今も。

どうでもいいけど池田エライザって1996年生まれの22歳なんだね。

いや、この前とある動画を観たらあまりの妖艶さに失禁しそうになっちゃいまして。
NHKのCoversで久保田早紀の「異邦人」歌ってる動画だったんだけど。

どうやら消されちゃったみたいね。
また興味があったら色々漁ってみておくれ。


ホントね、歌唱力ハンパないって。
22歳でめっちゃ大人びてるもん。そんなのできひんやん普通。

しかもGカップらしい。

・・・違うの。
調べたら出てきたんじゃなくて、勝手に目に入ってきたの。僕ぜんぜん悪くない。


でもホント上手かったなあ。
僕はテレビで女優が歌ったりするのを見ると重箱の隅をつつくようにして嫌味ったらしく批判するんだけど、今回ばかりはぐうの音も出ませんでしたわ。


マジでエライザ上手イザ。
同じGでも、友達じゃないのに友達より大切とか世の中の不条理を歌っていた某Gさんとは違う。


いいなぁ、顔良くて歌上手くて喋り方もしっかりしていて。
きっとガンバレルーヤのよしことかそういう神様のバグをプラマイゼロにすべくその一手に引き受けたのが彼女だったんだろうな。

 

僕なんていまだに居酒屋とか行くと「この飲み物はお酒ですけど大丈夫ですか?」とか「年齢確認できるものを何かお持ちですか」とか聞かれるのに。
でもこれは子供っぽいというより、きっと幼いのでしょう。

世の中を色々知らなさ過ぎるというか、苦労が少ないんでしょうね。


僕は桜の花に感動するということがこれまで一度もなくて、そのことについて「桜の花に感動できる人というのは不幸せなことを経験した人なんだろう」みたいなことを誰かも言ってた。
いつか桜を観て感動してみたいと思うけど、それを望むのもなぁという板ばさみの感情。

 

とはいえ僕自身が幼稚であるというのには、残念ながら否定できない。


何を隠そう僕は昔、母親の二の腕が好きだった。
もう10年以上前のことなのでこのようなカミングアウトに対して恥じらいはないが、それでも文字にしてみるとやっぱり気持ち悪いよね。


でもなんていうの。
あの筆舌しがたい柔さに僕は完全に虜になっていた。

しかしこれはフェティシズムのようなマニアックな問題より比較的ライトな嗜好であると思っていて、調べてみると存外すんなりとこんなデータも集まるものである。

news.livedoor.com

news.merumo.ne.jp

そう。決して僕は少数派の性的嗜好を弁じたてているわけではなく、単純に一般的な男性としての愚見を論じているに過ぎない。


そもそも僕ら男性が二の腕を好きな理由というのはその冷たさと柔らかさにある。

決して日焼けすることのないその箇所は、雪のように白く、溶けるようにひんやりとしていて、そしてマシュマロのように柔らかい。
・・・あぁ、こんな文章酔っていなければ絶対に書けない。明日の朝読み返してこのせいで二日酔いになるんだろうけど、そんなの知ったことか。


できることなら恒久的に触っていたい。枕とシーツと布団がアレになればいい。


けれども最近思った。
どうして僕はそこまでして二の腕に執着していたのだろうか、と。


考えるまでもなく、人間は硬いより柔らかいものが好きなのではないかという結論に至る。


例えばステーキひとつをとってみても、男女問わずウェルダンよりもレアのステーキのほうが好まれている現実があるではないか。
実体験ではないのでよく分からないのだが、体が柔らかいと試すことのできる特殊な体位が増えると聞く。

いやホント、世の中硬いより柔らかいほうがいいことばかりだな。

 


しかしそんなあるとき。
これも10年ほど前のことになるのだろうか、車の中で僕の隣に座っていた姉が運転席の母に向かってこんなことを言った。

「ねぇ、二の腕の柔らかさって胸の柔らかさとおんなじなんだってさー」

 

私は愕然とした。
もしかして僕は柔らかいものが好きなのではなく、純粋におっぱいが好きなのではないのかと。

僕が好きだと信じてやまなかったものは、結局のところ性的嗜好とかフェチだとかそんな生ぬるい言葉では表現できないような、男としての本能や衝動だけだったのではないのか、と・・・。

 

いやしかし、男性というのは押し並べて女性のおっぱいが好きな生物であり、それに女性の胸部はセックスアピールそのものであるからして我々男子はその性分に抗えないどころか、そもそも女性の側から恣意的に胸部を誇張するようなポージング・服装をとることからある種の誘導がおこなわれている可能性も否めなく、それゆえ男性がやたらと女性の胸部に関して発言することに関しての咎められる所以などなく、おまけに昨今の逆男女差別による思想から男性の地位を逆手に取った被害妄想を膨らませ悲劇のヒロイン気取りになった女性が目に付くようになり、それはそれで時代の流れなのであるかもしれないが、たしかに上述したようなAやB、Gなどとランキング付けされるのは容認できない問題であるように思うものの、しかし世の中には貧乳好きという層も一定数存在することや漫画やアニメにおいて貧乳キャラの存在が重要である現実に鑑みても、個人的に第三者にとやかく言われる筋合いはないというのが結論であるが、そろそろ何を言いたかったのか分からなくなってきたので終わろうと思います。

 

 


ごめんね、明朝の僕。

隣の個室から屁で挨拶されたら返すのが礼儀

僕クラスの公衆便所ユーザともなると、便所内における挨拶は欠かせないものとなってくる。

普段お世話になっている便器や便座はもちろんのこと、隣の個室で共に冷や汗を流す仲間に感謝するためにもトイレ内において礼節を弁えることは肝要であると思う。


だが、例えばどうだろうか。
ある人物が便座に向かって唐突に「いつも本当にありがとう」なんてのたまった日には、周囲から便器のような白い目で見られること請け合いだ。

そして隣の個室で踏ん張るあなたに「こんにちは!」と元気に挨拶するのも、やっぱり気後れしてしまう。


ならば、僕らに残されたコミュニケーションツールはひとつしかない。
そう、屁である。

だが大多数の人はこう思うだろう。屁でコミュニケーションが取れるのかと。

しかし屁を侮ってはいけない。
メラビアンの法則によると、人間がコミュニケーションをおこなうにあたって重視する項目は、言語情報が7%、聴覚情報が38%、視覚情報が55%とある。

つまり人間というのは言語情報がなくとも屁の音だけで4割近くコミュニケーションを図れるということになろう。


屁。
そう、それはトイレの住人たる僕ら腹痛族が編み出した、汗と涙の結晶なのである。


だから僕は隣の個室から挨拶されると、なるべく返すように心がけている。

例えば「ブリブリブリブリッ!! プ、プゥ?」と聞こえたときは、「俺はめちゃくちゃ元気だよ!! で、君は?」てな具合に変換可能である。

これは一般市民からすると非常に奇妙な光景に思えるかもしれない。
週に1回くらいしか腹痛を味わったことのない人からすれば、小便器に向かって用を足しながら「おいおい、個室のあいつは誰に向かって疑問を発してるんだ?」と思っていることだろう。

その他「ん゛ーっ、ん゛ーっ、ハァハァ、ん゛っっ! プリッ!」という吐息と屁のハイブリットタイプも多く見受けられる。
この現象に対して快便族の方々はきっと「おいおい、めちゃめちゃ踏ん張ってたったのそれだけかよ!」と笑いを堪えているに違いない。

だが僕らは、必ずしも努力が報われないことを知っている。
120%の力を振り絞っても、生まれ来るのはせいぜい7割が限界。

残りの3割の謀反に怯えながら水を流すときのあのやるせなせに共感し、隣の個室ではきっと涙を流す男の姿があるだろう。

 

だが、そんな僕らの仲を引き裂くように、数年前から天敵が登場した。
そう。ご存知「音姫」である。


本来ならば女人禁制であるはずの男子便所に、あろうことか姫が居座っているのだ。
このトイレのシステムを根底から覆すような技術革新に、我々腹痛族は2分化することとなる。

一方は変化を受け入れ、音姫の導入に歓迎をもって賛成する者。
もう一方はこれまでどおり腹痛族の結束をより堅固にしようと音姫に断固立ち向かう決意をした者。

どちらも意思を持って決断し、そのどちらも間違ってはいなかった。


こうしてかつての仲間を失った僕らは、もうこの先きっと分かりあうことはないのだろうという諦めに近い感情を持ったまま数年の時を過ごした。
そうこうしているうちに音姫は市民権を得るようにして、もはやウォシュレットにおける必須項目になるまでその認知度を高めていった。


けれど、そんな流れに反するようにしてある噂が流れ始めた。

音姫って排便時の音を完全に消してくれなくね?」

この意見は次第に万人の中に秘められていたモヤモヤ感とマッチし、すると音姫に対しての不満が増えるようになった。


「全然屁の音が消えないじゃないか!」
「30秒で急に止まるなよ!」
「てかお前うるさすぎ!」

排便の音が消えないのではもはや何のために音姫を起動させるのか分からない。
おまけに音を掻き消すためのシステムが「うるさい」とまで言われる始末。

時代の趨勢が変わった瞬間であった。

 

こうして僕ら腹痛族は分裂していたかつての仲間と合流し。再び歩き出し始めた。

けれど音姫の残した功績は大きく、トイレ内におけるパーソナル問題やマナー・モラルに対しての意見は増えている。

こうした動きから近年では「流した後にズボンを穿けばいいのか、ズボンを穿いた後に流せばいいのか」という議論が白熱し、話題を集めている。

特に混んでいるトイレの場合では、待っている人が流れる音を聞くと「おっ、もうすぐだな」と思ってしまうため、そこからモタモタとズボンを穿いていると後の人の腹とアナルに多大なダメージを与えかねない懸念が挙がっている。
反対にズボンを穿いてから流す場合も、ベルトの金属音が聞こえてしまうことによる誤解や先の見えない絶望感を与える恐れがあるとして、どちらも意見が慎重にならざるを得ないのだ。


こうしたデリケートな問題は、やっぱり屁によるコミュニケーションで軽減できればいいな、と思っている。

誰もが漏れそうなときは焦るものだ。
そんなとき、「ぷっ、ぷっ......ぷすぅぅぅ~~」という音で「もうじき空くからね」と後ろに列を作る人に合図できれば、きっと世の中はもう少しだけ平和になるような気がする。

 

そんな気がしているだけ。

透明人間とその費用対効果について

おそらく健全な男子ならば一度は想像したことのあるだろうこの問題に、ついに我がブログが言及する日が来てしまった。

いつか書こうかなぁとは思っていたものの、また今度でいいやなんて思っていたらいつの間にか他のネタが切れていた。


というわけで、こういう機会でもない限りこんなしょーもないことに触れられないと思うので重い腰を上げて書いてみる。

皆さんは「透明人間になったら」という妄想を脳内で膨らませたことはあるでしょうかね。


いや、あるでしょう。
でも透明人間というのは結果ではなく、あくまで手段に過ぎない。

透明人間になったら、まずは女風呂を覗くとか好きな有名人に会いに行くとか女風呂を覗くとか、人それぞれやりたいことは異なるはずだ。


だがここで設定に関しての大きな問題がいくつか存在する。

一つ目は、透明=不可視だけでいいのかということ。

 

僕はいつも思うのだ。
仮に透明人間になって念願の女風呂を覗けたとして、不意に誰かとぶつかってしまったらどうするのかという心配。

万が一、いや億が一にもありえないのだからこんな心配をしても仕方ないのは分かっている。分かっているんだけども、ここのところは明確にしておきたい。


映画「ゴースト」のように見えない&触れられないというんだったら何も気にすることなく女湯観賞を満喫できるんだけど、目には映らないだけで実際にそこに存在するのならばきちんと対策を講じる必要がある。

もし好きな女の子のお風呂に忍び込むんだったら、最悪の場合壁にしがみつくか天井に張り付くことも計画に入れなければならないだろう。
うっかり手が滑って浴槽にダイブなんてしてしまった日にはただのカオス状態と化す。

ならばそこまでして覗かなくても、と思うし、なんだったらそこまでして妄想しなくても、とも思う。

それ以外にも、透明人間であることがイコール他者から見えないだけならば、興奮して息を荒げてもバレてしまうしうっかりくしゃみなんてしたらと想像しただけで寝付けなくなる。

映画「スパイダーマン」のベンおじさんも言っていた。
大いなる力には大いなる責任が伴う、と。ノブレス・オブリージュって言ったかしら。

目に見えないだけというのがドラえもんの道具で言うところのモーテン星と同義であるとするならば、センサーや赤外線には反応してしまうし機械から見ればそこに人間がいることなどすぐに分かる。
要するに監視カメラにもばっちり映りこんでしまう。


透明人間になれたとしても、その分かなりのリスクを背負うことになってしまうことを忘れてはいけない。

 

二つ目の問題は、着衣まで透明化できるのかという点。

これは意外と見失われがちだけど個人的には重要だと思っていて、例えば映画「ファンタスティック・フォー」のスーザンのように衣類は透明化できずに下着まで脱がなければならないケースも当然想定しうる。
それともワンピースの世界観と同様、身に纏ったものすべてに能力が干渉するような具合ならばあらゆる場所にスマホが持ち込み放題で色々なビジネスでひと儲けできそう。

先に挙げた映画「ファンタスティック・フォー」や映画「ミスター・インクレディブル」のように、特殊なスーツを着れば衣類までも透明化できるというご都合主義もありなんだろうが、その場合スマホは持てないし電車も無料で乗り込めない。

大体そんな特殊なスーツなんて作ったところで数百万円くらいかかりそうだし、そもそも作れないでしょう。
どこぞの自称マッド・サイエンティストが「俺に任せろ!」とか言いそうだけど、なおのこと信用できない。


おまけに摂取した水分や食料が透明化されないとなれば、消化・吸収・排出の流れが可視化されてしまうということになりかねない。
その結果何もない空間からうんこが出現するというなかなか奇奇怪怪な現象を巻き起こすことになろう。

そんなのはいやだ。

 

三つ目の問題は、その能力が期間限定か否かという点。

おそらくこれが一番重要。
透明人間になってから数日間は、おそらく毎日が充実ハッピーライフハッピーホームタマホームなのだろう。

次はあの子の家に侵入しよう、次はあのコンサート会場に潜入しよう、飛行機に無賃で乗り込もう!などなど夢は尽きない。


だが、ふと我に返ったときこう思うのだ。
「俺はなんて孤独なんだろうか」と。

透明人間たるもの他の人からは決して存在を視認されることがないので、当然ながらそこに居ない人物として誰からも話しかけられることもなければこちらから話しかけることもできない。
もちろんこれは設定上の観点からいくつかひっくり返ることもあろうが、何もないはずの空間から突然声が聞こえたら人間普通いちもくさんに逃げるでしょう。


すると人間というのは弱いもので、有り余る自由を手にすると無性にやるせなさが募ることとなる。
映画「秒速5センチメートル」風に言えば、日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった、という感じ。


僕は知っている。
誰とも話すことなく過ごす一週間が、どれほど孤独であるかを。

夕刻になって、面白くないテレビをぼーっと観て、ふとした瞬間に笑って。
するとそのとき初めて、今朝起きてから声を出していなかったことに気付く。

微かに出た掠れた声。そのたったコンマ何秒のために大きく声帯が擦り減ったような気がして、そうしているうちに自分は死ぬんじゃないかとか思い始める。


ここまで来ると稲葉さんのソロ楽曲「透明人間」とほぼ同じ精神状態。
かなりヤバい。

だからアブサロムのように、悪魔の実の能力として自分が使いたいときに発動させるタイプが一番使い勝手が良いのではないだろうか。
良いのではないだろうか、なんて悠長に言っている場合じゃないけど。

 

さて、こうして色々とまとめてみたが、結局のところ透明人間になるには計り知れないリスクと向き合う必要があることが分かった。
我々はSF映画の中ではなく、暴風の吹き荒ぶ地球上の現実に生きているわけだからご都合主義もセオリーも定石も通用しないことだらけである。

そんな世の中だからこそ、僕らは夢を語り、そして追い求め、そしてそれを儚き妄想として胸のうちに秘めることがいつしか当たり前になった。


それでも僕は透明人間になりたくないとは思わないし、数時間限定のお試しキャンペーンがあるならば是非もなく参加してみたいと思っている。
けれどもやはり、現実でも理想の世界でもリスクマネジメントの観点は必要不可欠なのだということを今回学んだ。


そして僕は透明人間になりたいのではなく、ただ単に女湯が覗きたいだけの変態だということも、今回明らかになってしまった。

今後警視庁では、この男が近い将来何かいかがわしいことをするのではないかという疑念を追求すべく、捜査を進めていく方針である。