お金がほしい

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2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

アーティスト、というお話

昔のことだが、僕が発した「アーティスト」という言葉に対して疑問を投げられたことがあった。
「アーティスト」とは直訳すると「芸術家」であり、テレビ上で口パクに労するアイドルもダンス集団もそれに類するモノなのか、と。彼はそう言った。

まぁ実際はもう少し棘のある言い方だったが、僕の発言でもないのに責められるのはイヤなのでオブラートに包んでおいた。


とはいえ僕自身そこまで深く考えず「アーティスト」という言葉を使っていたため、当然返答に窮すこととなる。
テレビではロックバンドも演歌歌手もアイドルもパフォーマンス集団も「アーティスト」という言葉で一括りにされているため、そのことに対して特に疑問を持つことなく生活してきたのだ。そりゃやっぱり困る。


というわけでその時の僕はこの問題について結構それなりにしっかり考えることにした。

「アーティスト」とは何なのか。
英語を直訳した意味が日本でそのまま当て嵌まるのか。
なぜ僕がこの問題にここまで真剣に悩まなくてはいけないのか。


そもそも音楽というコンテンツを芸術というカテゴリーに入れたのはかの有名なベートーヴェンであり、それまでは音楽も絵画も全く別のジャンルであった。
なんだったらグレゴリオ聖歌のほうがそういった芸術的観点からして価値が高いような気もするのだが、ってまぁそれはいいや。

でもそれが今では詩人も写真家も小説家も全部まとめてアーティストと呼ばれている。
それがいいのか悪いのかは分からんが、そりゃここまで膨大なコンテンツを一緒くたにしてしまうような表現がまかり通れば当然反対勢力も出てきますわ。

だって音楽の中でもアレとソレを一緒にするな!って論争が止まないのに、そこに別ジャンルさんがこんにちはしてきたらカオスですよ、もう。


ちなみに山下達郎さんはこの「アーティスト」という言葉を自分で使うのも使われるのも嫌いだそうだ。

山下達郎 100Qインタビュー/チケットぴあ


とまぁこんなことを考えているうちに、これは言葉の問題ではなく個々人の概念の問題なのではないかと、ふとそう思った。


例えばピカソがそのいい例だと思う。

僕にはピカソの凄さが分からない。
ピカソをして凄いと言っている人は、本当にその凄さを分かっている玄人か、あるいは周りや世間に流されてそう言っているだけではなかろうか。

あ、いや、名前は凄いよ?それは分かる。自己紹介で大変だったでしょうね。

パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダッド・ルイス・イ・ピカソなんて名前でさ。

 

なんて分かったような口を利いてしまいうっかり炎上のタネを植えてしまったが、どうせ誰も水はやってくれないからいいだろう。
ただ、常日頃から絵画というジャンルにアンテナを巡らせているほど造詣の深い人物というのも、この狭き国日本にそう多くいるとは到底思えない。

たしかにピカソゲルニカが有名だが、10代の頃から比べればその画風が面白いように変わっている。
若いときにこの絵を描いた人がのちにゲルニカを、老いた乞食と少年を描いたのか!という衝撃はある。

でもそれが凄いことなのか、美術の成績が万年3だった僕には理解できない。

ただ茫漠なるままにピカソの作品を堪能しているだけである。

 


ではそれとこれと、何が違うのか。

僕にとってはゴミ同然の子供の絵が、その親にとっては宝物になる。
ある人にとってはただの破れた衣服が、遺族にとっては大切な思い出になる。
世間一般では理解されないバンドの曲が、ある人にとってはかけがえのない曲となる。

そんなもんじゃないですかね。よく分からないけども。


結局人それぞれ、僕にとって私にとってあなたにとって彼にとって、芸術というのは形を変えていると思うんです。やべぇめっちゃいいこと言ってる。

だから僕の発言に疑問を呈した彼にとっては、少なくともテレビ上の彼らがアーティストに見えなかっただけなのではないかと、そう思った。


あぁ、二日酔いだなこりゃ。