お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

男と月と、それから女 (前篇)

僕という人間はこれまで異性に告白というものをしたことがないのだが、いや、これは別に同性に告白をしたことがあるという意味ではなく、ただ単に僕の人生において「告白しよう」と思った経験がなかっただけである。

というのも単純に「あー何かもうやべぇー。めちゃくちゃこの人好きだわー」と思えるような機会がなく、そして気付けば花の青春時代なんて疾うの昔に終了していたというね。
さながら阿藤快さんのごとく「なんだかなぁ」と漏らしたくもなるのだが、僕自身が敢えてそういった色恋沙汰に足を突っ込まなかったという原因も多分にあるので、そこはもう仕方がなかっただろうと割り切っている。


まぁとは言いつつもね、殊に最近は青春の甘酸っぱい恋愛模様なんかを描いた映画なんかが多いから、そんな映画をビール片手に「なにが青い春じゃボケがっ!」なんてこぼす日々ですよ。
あーーー悲しい侘しい切ない儚い。

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

若山牧水のこの短歌がまさかここまで傷口に染み入ることになるとは思わなかった。


そもそもこれは中学か高校で憶えさせられたのか、はたまた教科書に載っていた短歌を何となく暗記してしまったのかすらも忘れてしまったが、こうして大人になった今もふとした拍子に諳んずることができるというのはなかなかに乙なものである。
国語という教科の真価というのは高校や大学受験ではなく、大人になったときにこそ発揮されるのかもしれないとふと思ってしまう。


例えば敬語表現なんかもそうだし、大学のレポートや面接の自己PR文なんて当時は苦痛でしかなかった読書感想文の経験が最大限発揮されているとしか思えない。

それに僕が今こうして駄文を連ねることができているのも国語という教科の恩恵に与った産物であるのは言うまでもなく、それは文豪と称された夏目漱石芥川龍之介などの文才、その片鱗を凡人の僕が模倣していることに他ならない。


もちろん模倣とは名ばかりの、どちらかといえばお遊びお飯事に近い文章ばかりではあるのだが、しかし悲しきかな人間というのは必ず誰かの影響を受けるもの。
その人の意識無意識に関わらず、思想や行動、矜持というものはそこに「ある基準」が設けられるもので、その基準とは生い立ちから現在に至るまでの関わってきた人物や文化そのものであると思う。

だからこうして今僕がちょっとかっこいい文章を書けているのも、僕の親ないし学校の教師や友達なんかの影響が色濃く出ているのだろう。
いや、自分ではまったくそんな気なんてしないんだけども。

 


影響とは実に恐ろしいものである。

それこそ夏目漱石が教師をしていた時代に「I love you」の日本語訳として「月が綺麗ですね」と提示したなんていう嘘みたいな逸話があるのだが、現代社会においてもこの文言を駆使して異性に心中を打ち明ける人は一定数存在しているほどにその力は激甚。

そういえば僕の友達にも1人、この言葉を元々知っていたのかは分からないが、ともかくこの台詞を使って愛を告白した男がいた。

もちろん結果は言うまでもないので言うまでもないのだが、本当に言うまでもないので言わない。いや、のちのち言うけども。

 


そう、あれは今から何年前になるだろうか。
僕が高校1年の頃、以前にも僕が陸上部に所属していたことはブログ内で綴ったが、その部活仲間であるむさ苦しい男、ここでは便宜的にAO木くんと呼ぶことにするが、彼は同じ陸上部に所属する一つ上の先輩に恋をしていた。

 

 

 

ってあーごめんなさい。ちょっと眠くなったので寝ますわ。
また次回続きから書きますので。いやホントに。

ほんとすんません。さようなら。そしておやすみなさい。