お金がほしい

お金がほしい

先に謝っておきます。ごめんなさい。

早朝の高速道路、そしてえずく男たち

我が家は地方在住ということもあり車を所有しているので、遠出するときは自家用車に家族総出で乗り込み高速道路を利用することが多い。

しかし高速道路=渋滞というイメージもあるとおり、やはり行楽シーズンともなると渋滞の直撃は必至。
自然渋滞ならまだしも事故渋滞ともなれば完全に旅の予定が狂う。あれ、この旅行の目的は渋滞にはまることではなかったっけ?という錯覚すら生まれてきてしまう。


僕の父は、理不尽な上司と使えない部下、そして信号待ちと渋滞を何よりも嫌う人間なので、予測できる限りの渋滞は極力避けようと腐心する。
そこにつぎ込む労力と言えば、片っ端から交通情報を調べて様々なメディアと照らし合わせて最善の解を導き出すまでにおよそ2時間。

しかもそのこだわりの割にいまいちネットを使いこなせないので、基本的にその調査は僕に一任される。つまり僕が一番の被害者なのだよ。


僕はあまり遠くに行くのが好きではないのだが、高速道路は比較的嫌いじゃない。
いつもはラジオもCDもかけずに無音で運転する僕であるが、高速道路では近隣住民の迷惑とか考えなくていいからガンガンに音楽を流せる。その瞬間がたまらなく愛おしい。

だから別段急ぎの用でもなければ交通渋滞もまた一興。高速道路の楽しみとして享受することもやぶさかではない。


しかしながら我が家の鉄則は渋滞を忌避するところからスタートするので、すると出発時間は早朝か深夜に限定されることが多い。
そして母は生活習慣の乱れを嫌うため、必然的に早朝出発が我が家の暗黙の了解なのである。


僕は夜型人間なので、正直早朝出発は辛い。
ここ数年、朝5時半に出発するのに前日の夜は2時くらいに就寝するからとても運転できるような精神状態ではない。

よって乗車してから朝日が町々の眠りを起こすまでのおよそ2時間程度はボーッとしたままただただ風景を眺めているのが常である。

 

そうして午前7時を回り、睡眠と覚醒の狭間でうつらううつらしていると車は左ウインカーを点滅させ、次第に速度を落としてゆく。
おもむろにカーブを曲がると、しょぼついた左目には大きな建物。そしてそれを越える広さの駐車スペース。

漠とした脳みそで「おぉ、もうここまで来たか」なんて思いながら、すると急に太陽が眩しく感じられ、さきほどまでの眠気はどこかに飛んでゆく。
もうひとつの僕の楽しみ、高速道路のサービスエリアである。


僕は人ごみが嫌いなので昼間の海老名SAなんて絶対に行かないが、早朝のサービスエリアは比較的空いていて楽しい。
車を降りると同時に頬をなでる風はまだ少しひんやりとしていて、排気ガスのにおいや唸るエンジンの音、ハンドルの上から足を投げ出して寝ているトラックの運転手。

こういう光景はきっと早起きした人しか見られないのだろうな、なんて思いながらまだ空いている駐車場を抜けて店内に足を踏み入れる。


空調の効いた店内も人はまばらで閑散としており、まだ閉まっているお店も多い。
特にフードコートなんて開いているのはうどんそば屋くらいなもので、併設されたコンビニのおにぎりはほとんどが売り切れ。

繁盛期は席探しに時間がかかるのだろうが、限られたお店の中で、それも座る人のほとんどいないフードコートでは逆にどこに座ろうか迷ってしまう。


買ってきた朝食とあまり美味しくない給茶機のほうじ茶を紙コップでいただくと、その次はトイレへ。
昼時でもほとんど行列のできないほど大量の個室トイレを用意してくれているサービスエリアでは、後につかえる待ち人の腹痛事情など気にせずにゆっくり用を足すことができる。僕は自宅トイレの次にサービスエリアのトイレが好きかもしれない。


だがどうしてだろう。
早朝の男子便所というのはたったひとつだけ、どこに立ち寄ろうと毎度お馴染みの光景が決まってそこにはある。


そう、それはおっさんのえづきだ。

爽やかな朝。100mほど先に車の行き交う音が聞こえ、駐車スペースに植えられた木からは鳥の鳴き声が耳に入る。
そして曙色と紅掛空色の入り混じる芸術的な空に響くは、子供たちの甲高い声でも店内放送でもなく、おっさんのえずき。


「おうぇっ」「おっっへっ」「ガーーーッ、うへっ」


手を洗いながらえずく者。
歯を磨きながら唐突にゲロりそうになる者。
人智を超越した場所に引っ掛かった痰を死に物狂いで吐き出そうとする者。


手洗い場に向かうと、血の混じった痰が洗面台にこびり付いて排水溝までたどり着かず水に靡いている。

この光景を前に自然と目が細くなるのは、きっと眠気がぶり返したからではない。嫌なものを見ないようにする人間の本能なのだろう。

 

こうして僕らの旅は、洗面台の痰のように何かが纏わりついたまま夜明けを迎えるのであった。

春は遠退き、やがて近づくのだろうか

我がバイト人生にも、ついぞ春の訪れを感じる季節となった。
なんと後輩として新入りの女の子が入ってきたのである。


後輩の女の子。なんと良い響き。これだけでご飯3杯は多いから食えないけど。


とまあ序盤から飛ばしてしまったが、なにせ数年にわたるアルバイト生活で見ず知らず&同年代&女の子という組み合わせは一度もなかった。
よって新入りの女の子という甘美な響きだけで精神がメルトダウンしてしまうほどに、僕としては喜ばしい出来事であった。


これまで同じ職場で働いた女の子は、どういう偶然か全員が顔見知り。
いや、最初の知り合いは僕が紹介、というか斡旋したので必然であるが、その女の子がのちになって連れてきた女の子もやっぱり僕と同級生の知り合いだったため、もはや職場が同窓会会場みたいなものだった。

おまけにその知り合いの女子というのが既婚者であり、どうやらもう子供もできたそうで。
子供は生まれたが、そこで僕らの関係に何かが生まれるわけではない。


その次のバイト先ではあまり期待せず、しかし一縷の希望を持って職場に行くと、なんと10年ぶりに小学校の同級生と再会。
休み時間は誰とも喋らずひたすら読書していた系の女子と奇跡的な再会を果たすという、まったく嬉しくない偶然に見舞われてしまった。

ちなみにそれ以外のスタッフは全員30超えの子持ちばかりだったので、恋愛とか色恋などに発展するわけがないのである。

 

そうして3度目の正直。
今回ついに、僕はささやかな幸せを手にすることができた。

以前その女の子が職場に面接へと来た際、僕は出勤日ではなかったのだが同僚の男性がその女の子を目撃していたらしい。
あまり近くでは見られなかったものの、「遠目で見る限りではけっこう可愛かったよ」などと期待させることを言うので、昨日という日を待ちわびていた気持ちも多少はある。


けれども僕は後姿めっちゃ美人だけど前から見たらそうでもなかったというケースと、前髪で顔が見えないがゆえに都合のいいように脳内補正していたというケースをいくつも知っている。
おまけにその同僚もあまり視力がよくないので、今回も裏切られる準備だけはきちんと怠らなかった。


そして彼女の出勤時間、実際に会ってみると良い意味でも悪い意味でも期待を裏切らないというか、まぁなんてーの?あれだよ、あれ。あれで分かるでしょ、ね。

決してマツコ・デラックスのような体形だったとか平安時代だったら美形だったとかそういうのじゃなくて、多分皆さんが思い浮かべるであろう一般的な大学生女子の顔。そうそう、それそれ。
いかんにも名状し難い。文章書いているのに表現が思い浮かばないとは情けない限りだが、さすが高校時代「はらぺこあおむし」を題材に読書感想文を書こうとして挫折しただけのことはある。語彙力が乏しいのだ。


しかしその彼女、初出勤日だというのになんというハイスペック。挙措が出来上がっている。


僕は出勤するたび1日に5回は怒られているのだが、おそらく怒りたくなるような僕の人間性にも問題はあると思う。
塾講師の社畜時代以降、アルバイトに対して何の思い入れもないためのんびりマイペースでやっているし、毎回「しまった」と思いつつも同じミスばかり犯している。

そのうえ注意されているときは真剣に聞いているフリをして「うっせぇな」とか思っているので、まるで学習しない。こいつもうダメだ。


けれども新入りの女の子は違う。
僕と同じようなミスをしても、けっして怒られない。そりゃ初日だから、というのも当然あるだろう。

しかし違うのだ。社員の人の諭し方や目の鋭さ、力の入れようがまるで僕のときとは違う。

同じことをしてもイラッてくる人と、なんだか許せちゃう人っていると思うんだけど、彼女は後者なんだろうな。
僕もちょっと教えたけど、もう全部許しちゃったもんね。ちくしょうズルいぜ。

おまけに元来の人となりができているため、何かを言われなくても進んでそれとなく対応できてしまうことが多々あった。おまけに一挙一動が丁寧で、あーもう負けたわ。


そして個人的にトドメを刺したのがその女の子、年齢がなんと僕の1つ上だというのだ。

僕は姉がいるから、年上の女性は恋愛対象として見ることができないどころか恐怖の対象である。
今は僕のほうが職場の立場上先輩だけど、そのうち名実共に抜かされる日も近いだろう。なんか身長も170センチくらいあるみたいだし。


というわけで、全然春が訪れていなかった。むしろ冬の厳しさが増した。
こうして僕の青年期は、開幕することもなく閉幕へと向かっていくのだろう。


ともあれ、その女の子が左手の薬指になにか光るものを付けていたのは、たぶん見間違えだとは思うけど。

パカッと開けるタイプのスマホケースが欲しい人生だった

あの、なんていうの。
パカッと開けるタイプのスマホケースを所有したいという業の深い考えが湧き出でてしまった。

僕は現在、本体に傷がつかぬようにと外郭を囲うタイプのはめ込み式ケースと画面フィルムをもってスマホ防御に充当しているのだが、そんなことよりもパカッと開けるタイプのヤツがほしい。
調べてみると手帳型ケースというらしいのだが、何でもいいからアレがほしい。


けれども、こう書くと「欲しいのだったら買えば良いではないか」と進言する読者皆々様の温かいお声が聞こえてくることもある。
しかしながら、僕という人間は欲望に真っ直ぐ生きておらず、而して淀み行き場を失った思いをブログというメディアを介し発信することでどうにか命を繋いでいるのだ。

僕は、そう。
無性にキャベツ太郎が食べたくなったからといって数年ぶりにスーパーの駄菓子コーナーに足を踏み入れることもなければ、大義名分を盾にアリアナ・グランデの胸を揉みしだくような牧師にもなれない。

けっきょくのところ、今こうやって「アレがほしい」「コレがほしい」と思っているこの感情だってあくまで一過性のものであり、言ってみれば流行を追い求めているだけではないのかと。
そう自分に言い聞かせているうち、購買意欲というものは実際逓減してゆく。


僕は知っている。
手帳型スマホケースは、開けるのが面倒臭いのだと。

急に電話がかかってきたとき、ただでさえポケットからスマホを取り出すという作業が億劫であるのに、あまつさえボタンを外してカバーを背面に折り畳むという手間が増えるのは、きっと針の筵に座らされた気分になること間違いなし。


僕は知っている。
手帳型スマホケースは常にカバーが落ちてこないよう強くホールドする必要があるため、手や腕の筋肉が疲れるのだと。

ベッドの上で仰向けになってラインを返そうにも、ボタンのついた突起の部分がブラブラと垂れ下がって気になってしまうのではあるまいかと。


僕は知っている。
手帳型スマホケースは値が張る割に融通が利かず、決してユーザビリティ評価が高くないことを。

モノによってはカメラで写真を撮るためにカバーをずらさねばならないものもあるだろう。カバーを変えるにしてもスマホの背面に強力な粘着シートを貼っているため、取替え作業に手間がかかることもあろう。

 

僕は手帳型スマホケースを使ったことが一度もないけれど、使用せずともその欠点くらいはなんとなく理解している。
なにせ、あまりに欲しかったせいだろうか勝手に脳内でシミュレーションしているうち、使ってもいないのに「手帳型は使いづらいなぁ」とか思い始めたほどの末期症状。ヤダ、この子危険だわ。


けれども、そういった欠点をひっくるめて僕は一度でいいから手帳型スマホケースを使ってみたい。
良いところも悪いところも、この僕が愛そうではないか。もしかして僕ら、結婚する運命にあったのではないだろうか。

 

駅の改札口で手帳型ケースをピッとかざして颯爽と歩き去ってゆく人たちがめっちゃかっこいいんだよ。
レストランで、ただスマホを机上においているだけなのにお洒落なインテリアのごとくスマホケースを見せびらかす人たちがたまらなく羨ましいんだよ。
定期券の話になったとき、こっちが財布からカードを出す間に相手がスマホケースからスッと引き抜く姿を見ると負けた気分になるんだよ。


なんといっても、やっぱりおしゃれじゃないですか。
普段から服装や髪型にさほど時間を費やしていない僕だけど、さすがに最低限鼻毛を切ったり汗臭い服を着替えたりと不潔さは取り除こうと努力している。

ようするに、手軽で手頃で手近なファッション性というものを、僕としては望んでいるわけだ。


するとどうしても、現代社会においてなくてはならないスマホケースという代物に目が行くのはもはや自然の摂理ではないのか。
財布はずっと前から様々な変遷を辿ってきて、色々なトレンドを生み出し安定してきた。そしてこれは僕の考えだが、あと十年もすれば財布を持って外出するという機会も減ってくると思う。

コイニーや中国のアリペイなどの決済方法が世界標準になれば、おそらく銀行はつぶれ革製品業は衰退し、諭吉さんなんてドロップ率のかなり低いレアアイテムと化すこと請け合い。
皆さんお気づきの方も多いだろうが、メルカリはもはや銀行と同じことをしていてキャッシュフローが規格化されつつある。


・・・なんてことは今は置いておいて、そういうわけで財布にはもはや機能性しか求めていないのだ。
しかしスマホケースというのは新興の、いまだ発展途上にあるファッショナブルなアイテムである。未来があって希望がある。


よって僕は惹かれてしまうのであろうが、しかし「欲しい」という気持ちとは裏腹に、手帳型のスマホケースを今後僕が持つことはないだろうという気もなんとなくしている。
今の時代、手帳型スマホケースが一人勝ちする未来を僕は想像できない。

だって考えてみて欲しいのが、数年前までスマホにキーホルダーをつけるのが当たり前だったはず。
それが今では、誰一人としてアクセサリーをつけている人はいない。キラキラしたデコレーションを貼り付けたり、ズボンポケットのチェーンと繋げるような人は今や絶滅危惧。


つまり、日常的によく使うものに関して人間というものはデザインよりも機能性を重視するのではないだろうか。
包丁は「かわいい」よりも「切れ味がいい」ほうが断然良いし、ノートなんてデザインよりも価格重視でしょ。

 

僕は流行ではなく趨勢を捉えたい派の人間なので、いつか世間が流行に飽きたときに残ったものが、僕と同じものならいいなという、ただそれだけを今は望んでいる。