お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

「いい質問ですね」と言われたい人生だった

久しぶりの出勤を終えた。
マスクのゴム圧のせいだろう。耳の付け根が脈打つように痛くて、それが徐々に頭痛に変わる。
あとめっちゃ眠い。疲弊感とマスク内に排出した二酸化炭素を再度取り込む呼吸のせいだろう。

久しぶりに歩いた。
地下鉄の階段で、酒も入っていないのによろけてしまう。

立ち止まると、やにわに膝が笑い出す。
高校生のとき、化学の授業で分からない問題を当てられたときもビクビク震えていたっけなと、そんな記憶が蘇った。


目の前を、おなじくらいの年代のカップルが歩いている。
女の子の顔は見えないけど髪はツヤツヤで肌が白くて、駅構内に吹いた湿気交じりの風が、はじめて嗅ぐようなコンディショナーの香りを僕の鼻腔にまで運んでくれた。

なんだか幸せそうだった。
手を繋いでゆっくりと歩いている。

まるでこの空間だけ時の流れが遅いかのような、そんな錯覚さえ感ぜられる。


彼らを追い抜こうとするも、壁との隙間は人ひとり分が通過するスペースを用意していない。

彼らを追い越すには、彼らの幸せを越えなければならない。到底無理な話であった。
幸せな人以外、追い越し禁止なのである。

それにこのご時世。
ソーシャルディスタンス。世から隔絶されていた僕が、ついぞ人間からも隔離されることになろうとは。

よって彼らに接触しながら追い抜く行為は憲法違反。田舎人に対する東京なりの洗礼だろう。手荒い歓迎をありがとう。


ひとりでいると、たまに悲しい気分になるときがある。
長渕剛も「甘い言葉の裏には一人暮らしの寂しさがあった」と歌っている。

特にこの情勢下において、それでも会いたいと思える人がいるのはとても素敵なことだと思う。
若者がよく叩かれている。そんなことはきっと何年も前から変わっていない。孔子の「後世畏るべし」が有名なのがその証。

僕たちだってあと30年もすれば若者を叩くようになるだろう。それはそれで良い。
若いというのはそれだけで罪なのかもしれない。羨ましいのかもしれないし、妬ましいのかもしれない。

社会のどんな批判も意に介さず、自分に都合の良い世界を作り上げてしまう。それを実現できるのが若者の強さであり、いずれ失う魔法の力である。
濃厚接触なんのその。ただ会いたいという気持ちと、会えばもっとお互いを感じていたいという純粋な気持ちを優先できてしまう。まことうらやましきこと。

最寄り駅で降りて、近所のまずいラーメン屋の客入りが良くて、立ち寄ったスーパーの総菜コーナーは空っぽで、自宅の冷蔵庫も空だった。
ベッドに倒れこんで「おじさんも君みたいな女の子と濃厚接触したいよぉ」と呟いてみて、変な笑い声が出た。


人間はけっきょくひとりなのかもしれない。誰かと居たいと思うのは、誰も居ないからなのかもしれない。

自分に自信のない男に女性は興味を持ちません。LINEニュースに書いてあった。
そのとおりだな、と思う。でも、どうやって自信を持てばよいのか、いまだにわからない。

きっと彼女がいれば、自分が支えている命があれば、あるいはそう思えるのかもしれない。
そんな現在も過去も存在しないから、自信が芽生えるはずもない。砂漠に井戸をつくっても、水は掬えないのだ。


たまにこういう文章を書いてしまうようになった。
鉛のように重たいが、その実病んでいるわけではない。さきほどまで録画しておいたすべらない話を見て笑っていたところである。

いつからか気持ちがフラットになってゆき、女子高生を見ても「まだガキだな」としか思えなくなった。
でも「僕ももう年かな」なんてダサい台詞は、冗談でも言えない。

若者にしかないものを、もしかしたら僕もちゃんと持っているかもしれない。
本当は、まだ青春が続いているのかもしれない。まだ僕の心は、地元の最寄駅で電車が来るのを待っているのかもしれない。
雨の日は迎えに来てね、なんて甘えていられた数年前の人生は、もう終わったのかもしれない。


スーパーマーケットには、買おうと思っていたしめじがひとつだけ残っていた。
なんとなくイヤな気分がした。割れているわけでも、特別小さかったり形が歪なわけでもないのに。

それが僕と気づいて、買って帰った。
僕は宝くじに当たったことがない。でも、だからこそ他人に優しくなれるのかもしれない。信号機の赤を守れるのかもしれない。


今日は「かもしれない」ばかり書いているから、明日は良いことが起こるかもしれない。
そんな素敵な日々を誰かと共有できる人たちは、今を幸せに生きていっておくれ。それがせめてもの責務であると。