お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

老婆心ながら。

たった数年ほど前のことだが、自分が高校生だった頃はなんと浅略であったのだろうかと悔恨の念に駆られるときがしばしある。
高校生というのは、15歳から18歳に至る3年ものあいだ有名ブランドを有効期限付で着込む権利が与えられているようなもので、法を犯さない限りは大概の場合何をしても許されてしまう。毎日スター状態であらゆる敵を薙ぎ倒すことができる。そんな素敵な毎日だったはずである。

しかし墓に布団は着せられぬように、僕らが後悔するのはいつだって戻らない過去に対してのみ。
きっと数年後には、こうしてPCに向かい愚にもつかない文章をひたすら叩き続けるこんな日々も、後悔という灰色のページにカウントされているのでしょう。

けれどもだからこそ、次の世代には自分と同じ轍を踏んでほしくない。もっとうまく生きてくれ。こんなダメ人間の二の舞になるな。そう喚起したくなるものである。
とはいえ、子供の生活を支えるのは大人である。つまり、大人の生活や意識を変革させない限り、子供の生活に変化は訪れない。


少し話はそれるが、「親は自分のコンプレックスを子供で埋めようとしている」という見方がある。
たとえば、英語がまったくできなかった親は英語が堪能な子に育ててあげたいと思うし、字が下手なことがコンプレックスだった親は子供を習字に通わせる、といったところである。

あるいは、自分が好きな音楽を考えてみるのもいいかもしれない。
小学校のときに好きだったアーティストは、親が好きだったことが影響しているケースがほとんどではないだろうか。


このように、子供の生活というのはほとんど親、つまり大人が支配している。
だから、もし小学校の制度としてロクでもない方針が掲げられていても、子供たちはそれを当たり前と享受してしまうのである。

現に僕がそうであった。
「世の中というのはそういうものなの!」「今は分からないかもしれないけど、大人になれば分かるから」と言われ続けて早幾年。
けっきょく大人になって分かったのは、後悔と諦念と憎悪と悪意から構成された杓子定規な押し付けが世に蔓延っているだけということだった。
脳みそは世の中のシステムを理解できるようになったが、納得したかどうかは別問題。

 

子供がかわいそうじゃないか。
色々なニュースを見て、そう思うことが多くなった。この感傷はたぶん、僕が大人になったからじゃなくって、子供ではなくなったからこそ抱けるものだ。モラトリアムなのである。

子供のときの気持ちなんて、忘れてしまった。
「大人は子供だった時期が絶対あるはずなのに、どうして子供の気持ちが分からないのだろう」と、あれほどまでに強く大人を憎んだ少年の炎は、いつのまにか音もなく消えていた。
今では男の子がこいのぼりを欲しがる気持ちも、100円のお小遣いで大はしゃぎする気持ちも、まったくもってよく分からない。

よくわからないが、大人には最低限理解しようと努める義務があるはずだ。
そしてそれを子供に伝えて理解させてあげるのが、せめてもの道理ではなかろうか。

 

・・・なんてことを言うつもりは毛頭ない。僕たちが期待していいのは、次の世代だけである。


だから、要するに何を言いたいかというと「若人よ、脳みそを使え」という、ただそれだけ。

僕の後悔は単純明瞭。「何もしなかったこと」である。
何もしない現状に言い訳を見つけて停滞し、その淀みの中でじわりじわりと腐っていった。

腐ったのは性根も目つきもだが、それ以上に脳みそも腐敗していった。
何かを考えているようでいて、何も考えていなかった。自分の足で歩いているようで、誰かの足跡を辿っているだけだった。


僕ももう、子供ではなくなってしまった。だから今はもう、願うしかできない。

今を生きる高校生諸君には、もっともっと脳みそを使って生きていってほしい。
もっと批判精神を身につけて生活してほしい。

 

たとえば身近な例で、こんなニュースがある。

www.asahi.com

あまりに時代錯誤なのは一目瞭然だが、こうしたニュースにきちんと向き合っているだろうか。

 

批判というのは非難とは違う。
「クソみたいなルールで縛りつけやがって」と吐き捨てるのは容易だが、このニュースの何が問題なのかをきちんと考えてほしい。そして見極めてほしい。

老婆心ながら。