お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

宝くじという魔物

キャッシュレス推進と言われてずいぶん久しい。
僕の周りでも、1年前ならその単語に見向きもしなかった人が「この前の飲みの会費LINE Payで払ってもいい?」なんて聞いてきたりして、あぁ、時代は少しずつ変わっているのだなぁなんて感じる。

しかし日本という国は残念ながら、先進国の中でも極めて現金主義的というか、ドイツと並んでキャッシュレス決済比率が低いことで有名だ。

その背景としては、国民の現金に対する信用度が高いことや、店舗側のキャッシュレス決済端末の導入・運用コストがかかることが一般的に挙げられている。

2019年秋の増税に向けて国がキャッシュレス推進プロジェクトを考えているようだが、なんというかやりかたが下手くそすぎて非難轟々。


隣国の韓国では、世界的に見てもキャッシュレスがかなり進んでいて、その理由としてクレカ利用額の一部の所得控除や宝くじの参加券を譲渡するという施策を政府が促進しているのが大きい理由だとされている。

はじめてきいたとき、宝くじの券をあげるのはけっこう面白い案だなぁと思って、単純な思考回路で日本もそうすればいいのに、なんて考えた。

日本のキャッシュレス促進案はチラチラ耳にするが、ちょっと難儀でよく分からない。
けっきょくこの間のPayPayみたいに一時的な爆発が起きてすぐに収束して終わりそうな気もするし、商品券に至ってはキャッシュレスのもっと奥深くに根ざしたペーパーレス化という課題をまるで無視していて謎すぎる。


まぁそういう意味では、宝くじがいまだに紙媒体である理由も不明瞭である。
コンサートのチケットは徐々にスマホ内で完結できるようになり、電車の切符なんていまやそのほとんどが電子マネー

その情報をどうして利活用しないのは甚だ疑問ではあるのだが、しかし「誰のものか分からない」紙切れよりは幾分かマシだと考える。


けれども、では紙媒体が本当に悪なのかどうかという点については、いささか議論の余地があろう。

たとえば道端で札束を拾ったとして、その現場を誰も見ていなかったらどうだろうか。
そのまま盗んでしまう人もいるだろう、警察に届ける人もいるだろう。

盗んでしまう人は、ではどうして盗んだかというと、そりゃあお金がほしかったからであろうが、その前提として「ここで自分がお金を盗んでも足がつくはずがない」と考えたからではないだろうか。

もし札束にRFIDタグGPS機能、さらにはデータとして所有者の名前が登録されていた場合、おそらくその札束を誰も盗むことはないだろう。

 

と、このような出来事が実際身の上に起きたことがある。

数年前のこと、近所を歩いていたらふと道端に紙切れを発見したので近寄ってみると、そこには「宝くじ」の文字があった。
一枚だけ道端にポツンと、風に飛ばされそうなところを道路脇の雑草が纏わりつくことで身動きが取れなくなった状態で僕が第一発見者となった。

何も考えずにそれを手に取り、「抽せん日」が間違いなく未来の日付であることを確認した後、あろうことか僕はそれをポケットにしまいこんだことがあった。


家に帰り、表面に記載されている「第○○○回 ××宝くじ」みたいな文言をスマホで調べてみると、やはり抽せん日はそこから数週間後。
どう見てもホンモノだし、というかニセモノの宝くじなんてあるはずないと思っていたし、というわけで僕はたった1枚の宝くじ(¥300相当)を偶然にもゲットしたのだった。


それからの毎日は、かつてないほどにハリと弾力のある素晴らしいものだった。
買ってもいないただ拾っただけの宝くじを持っていることが、もうすでに当選しているような気になってしまい、当選したら誰に言おうか、あるいは言わないか、何を買い変えようか、その代わりに何を捨てようか。

夢は膨らむ。期待も膨らむ。妄想は広がる。世界が広がる。


その数週間、僕こそが物語の主人公であった。
「宝くじが当選したときの流れ」というネットの記事をいくつも閲して、脳内のシミュレーションは完璧に近いものだった。

 

いったい何が僕をそこまで昂揚させたのか。
今にして思えば、その宝くじを拾う少し前、映画「チャーリーとチョコレート工場」を観たのが良くなかったのだと思う。

同映画では、貧乏な家庭に生まれた少年チャーリーが、偶然道端で拾ったチョコレートに入っていた金のチケットを手にしたところから物語が始まる。
もし僕が同じ状況だったら、「当たった!当たったんだよ!」などと大声で自宅に帰っても、父母が冷静な顔で「で、どこで複製したんだ?」などと訊いてきそうなものである。ひどいな。


だが、貧乏とまではいかなくとも裕福な家庭と言うには憚られるものもあったし、僕の幼少期はまさに我慢の連続だったし、ここいらで大きな転機が訪れても何ら不思議ではない。あぁ、かつて憎み恨んだこともあったが、人間とは神のもとに平等であったのだ!


抽選日にはそんなテンションで朝一の宝くじ売り場に行ったものだから、たった1枚の紙切れを持ってきた十代の若者が「¥0」を前に打ちひしがれていた光景を、いったい販売員の方がどのような気持ちで見ていたのかは想像に難くない。

こいつはたった一枚だけ購入して換金に来たのか?それで当たると思っていたのか?そんな絶望に満ちた目で私を見るんじゃない。急に声のトーンを下げるんじゃない。
あのときの店員さんには、時空を越えてお詫び申し上げます。

 

ちなみに僕はそれ以来宝くじを買ったことがない。というかその時も購入はしていないのだから、10年以上自腹で宝くじを買っていない。

よく「宝くじは夢を買うものだ」などとのたまう者がいるが、正直負け惜しみもいいところである。
理性と感情の不協和を解消するために、人は自分が納得できる解を無理くり導出することがあるが、上の例はまさしくそれ。


僕は単純に悲しかったし、宝くじは絶望を買うものだ、と感じた。

たぶん、プラスとマイナスの計算をすれば、ゼロになるのだ。
妄想の時間は楽しい。家族と「当たったら車買い替えようね」とか「宝くじ当たったらみんなで旅行に行こう」とか、そういった時間はかけがえのない財産になる。

だから宝くじが外れたとしても、内心悔しがりながら「楽しい時間をありがとう」と笑って終えることができるのだ。


しかし結果が悪いまま終わるのはとても気持ちが悪い。
よく、人にアドバイスをするときは「最初に悪かった点、それから良かった点を言ってあげるほうが相手の印象は良くなる」と言うが、けっきょく有終の美てきな、終わりよければ全てよし的な、まぁいわゆる大団円をみんな望んでいるのだ。


それなのに、宝くじは購入者の9割9分以上を地の底に落としてやまない。
期待させるだけさせておいて、いざ抽選日になるとその本性が牙をむく。そして落胆した人の背中を見ながら、ざまぁ見ろと言わんばかりの大きな声で、札束を手団扇に嘲笑するのである。

宝くじは性格が悪い。友達になりたくないタイプ。
僕は決してお金持ちだから、とか、有名人と知り合いだから、などという理由で友達を作るようなタイプではない。

だから向こうから近寄ってこない限り、僕は恐らく彼と絶交したままでしょう。

 


なんて、どうでもよいお話でした。はは。