うしろがみひかれるおもい
金曜夜の最終電車。
ホームでは訳のわからぬ世迷言を大声で捲くしたてている顔面紅潮おじさんや、居酒屋特有のタバコ臭を衣類に付着させて通り過ぎる人でごった返していた。
そんな風景を横目に改札を駆け抜ける人々。そして僕もそのひとり。
そんなありふれた日常に紛れるようにして、とある事件は前触れもなく起こったのであった。
そう、あれは先週末のこと。
バイト先の同僚と居酒屋で不満をぶちまけあっていたその日は、どういうわけか終電の10分前に至っても注文をやめないでいた。
そんな刹那にふと目に入った時計が僕を我に返らせ、このままでは後悔する羽目になると焦った僕は「お金は今度払うから!」とだけ言い残して同僚と店を後にした。
暖房の効いた室内とは裏腹に外は冷えている。
もう冬なのだという実感は吐息の白さからも伝わってきた。
店を出る手前、「どうせもう間にあわないよ!」と、そう同僚から言われた言葉だけが脳内をぐるぐる巡り、いつしか僕の足は歩きではなく走りに変わっていた。
やっとの思いで駅に着き、残り数十秒で電車の扉が閉まってしまうという危機的状況をどうにか脱すべく、酒樽状態となった胃液をどうにか宥めつつ駆け上がったエスカレータ。
駅員さんのご厚意にも助けられ、どうにか駅構内で夜明けを待つというバッドエンドを回避した僕は、混み合った電車の中、吊革を持つサラリーマンの腕にかからないよう、乱れた呼吸の最中にそっとため息をついた。
僕が乗るとすぐに電車が動きはじめて、本当にどうにか間にあったのだと改めて胸を撫で下ろす。
居酒屋から多少なりとも走って駅に直行したのだ、当たり前のようにゴロゴロと音を立てて異変を告げる胃腸を鼓舞しつつ、ここで僕は財布を裸のまま手に持っていることに気がついた。
いくらここが安全な日本とはいえ、人が群がる中財布を見せびらかしていれば、それは「盗ってくれ」と言っているのと同義である。
そう思った僕は、鞄の中に財布を仕舞おうとして下を向いた、まさにその時のこと。
「いたっ!」
つい口をついた言葉は、知覚神経が後頭部の痛みを脳に伝達した証左でもあった。
なんということだろうか。
僕の後頭部の髪の毛がドアの間に、そりゃあもう見事なまでに完璧に挟まっていたのである。
20年以上生きてきた中で初めての経験だった。
テレビかなにかで、通勤ラッシュのサラリーマンがスーツを扉に挟んだまま電車が走っていく映像を見たことがあるが、まさか僕がその当事者になる日が来ようとは。
しかもよりによってスーツじゃなくて髪の毛。黒色という共通点しかない。
そんなイレギュラーすぎる現実を前に、僕はかなり動揺していた。
もちろん表情には出していなかったはず。トチ狂った目でハァハァと息を切らしていたらそれもう完全に通報されちゃう。それが分かるくらいの自制心は保っていた。
けれどもこの状況、一体どう打開すればいいのだろうか。
ここまで後頭部に違和感があると、逆に乗車してから数十秒気付かなかった自分の鈍感さには感心すら覚えてしまう。
次の駅に到着するまでおよそ5分。田舎の駅間は長く、なおもこの状況では一層長く感じられることは明白であった。
ーーーーならば、何とかするしかあるまい。
人知れず、そう決意した僕。
依然として財布を握り締めたままの右手は、冷や汗で湿り気を帯びていた。
しかし、指ひとつ動かすのがやっとなくらい混雑した車内で、どうやって髪を救い出してあげるのが正解なのだろうか。
両手を後頭部に回して髪を引っ張ればいいだけのことじゃないかと、きっと誰しもがそう考えることだろう。
けれども昨今のセクハラ告発戦国時代において、迂闊に電車内で手を動かすのは社会的な死と繋がる恐れがある。
そんなリスクを冒すくらいならば、ただじぃと5分間後頭部に違和感を抱えながら堪え忍ぶほうが幾分かマトモな判断だろう。
・・・いや、待てよ。
僕はふと閃いた。
多少頭皮に負担がかかるかもしれないが、単純に頭を少しずつ扉から離して引っ張ってみるのはいかがだろうか。
思い返せば、両開き扉の縁は安全のためゴムで覆われているから、そこまで強い力で髪が引っ張られることもないはず。
もしかしたら僕は難しく考えすぎていたのかもしれない。
多少パニックに陥って、もちろん酒のせいもあって正常な判断力が失われていたのだろう。
やれやれ、などと思いつつ頭を前面に傾けた僕は、
「いったぁぁああっっっ!!」
あまりの衝撃に、そう絶叫したくなるくらいの激痛を味わうこととなった。
毛根No.15478は当時のことを回顧してこう語っている。
「一瞬の出来事でしたが、あの時のことは今でも鮮明に覚えています。なにせ突然のことだったので当時の詳しい状況までは分からないのですが、私の脳裡には強烈な恐怖体験として刻み込まれていますから、忘れたくても忘れられませんよ。あのとき私は親友を・・・毛根No.15490とNo.15503を助けてやれなかったんです。ブチンッという彼らが遺した最後の断末魔が今でも耳の奥にこびり付いていて、それを思い出してしまうので最近は睡眠不足気味なんです」
彼の目は憂いを帯び、苦楽をともにした最愛の友との突然の別れに対して、いまだ気持ちの整理ができていないようにも見えた。
No.15478はどうにかあの災害から生き延びることができたが、ひどく傷んだ外見と友を失った心の傷は、そう簡単に癒えることはなさそうだ。
僕はひどく後悔した。
やらないよりもやったほうがいいと誰かに聞いたことがあったが、今回ばかりは脳内の「やらなきゃ意味ないよ」という呪文に惑わされて大きな代償を支払う結果になってしまった。
もうポニーテールの人を見かけても後ろから引っ張りません。
駆け込み乗車もしません。
毛根を、髪を、なにより冷静な判断力を大事にします。
だからどうか神様、なにとぞ僕にお慈悲を!
そう願った僕の想いが通じたのか、はたまた単純に5分というあまりにも長い時間が経過しただけなのか。
プシューという音と同時に扉が開き、僕と僕の頭皮はようやく拷問から解放された。
開扉と同時に電車に入り込んでくる冷気は体を撫でるように包み込み、やがて頬につぅと流れた雫をもそっと冷やし、どこかに消えていったのであった。