お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

書くほどのことでもなし

最近、無意識下においてモノをぽんっとどこかに置き、数分後にそれを探し回るという遊びがマイブームである。

うそ。
全然流行ってない。なんならさっさとやめたい。

どうしていつもこうなるのかしら。まったくもって慙愧に堪えない。
特に最近はスマホの雲隠れ術がスキルアップしたのか、数十分探してもなかなか顔を出してくれない。

んで終いには奥義「固定電話からの呼び出し」を召還するんだけど、けっきょくどこにあるか分からないんだよね。なんなの。


ちなみに今日は配送業者が拙宅に取りに来るダンボールの中に収納されていた。ガムテープを剥がしたら彼がいた。
危うく我がスマホとそのデータたちが出荷されて売り飛ばされてインドかどこかの貧困地域の家族を映し出す多機能カメラとなるところであった。

こういうのよくない。ホントよくない。
つい先日バイト先で同じことをやらかして、従業員総出で探し回って結局自分が持っていたという、「てへっ」では済まされない失態を犯したばかりだというのにこの男、まるで学習能力が欠如している。さっさと死ぬべきであろう。


そんなことを思いながら洗濯物を干していると、2本の選択竿に跨る大きなクモの巣を発見。
書き取り帳に大変よくできましたと花丸をくれていた先生のように、僕もこの巣に賞賛を浴びせたくなった。それくらい見事なクモの巣であった。

とはいえきっと誰もが想像するような典型的なクモの巣で、いやだからこそフォルムが美しい。僕はクモが大嫌いだけど、クモの巣は木に巻きつけるとわたがしっぽくなるから嫌いじゃない。意味が分からない。

しかし我が両手には既に大量の洗濯物Feat.ハンガーが掴まれていて、指の血管がそろそろデスメタルを奏でそうになっていたためやむなし。どうにかして洗濯物を一時退避させると近くに落ちていた鉄の棒を片手に、おじゃましますと破壊工作に打って出た。
これほどの大きなクモの巣を、一体どれだけの労力をつぎ込んで作ったのだろうか、そしてその費用対効果はあったのか、あるいは飢えをしのぐことはできたのかなどと熟考しているうちにクモに対する罪悪感が生まれる、なんてことはこれっぽっちもない。私はドライな人間である。ちなみにドライアイではなく、乾燥肌にも悩まされていない。どちらかといえば脂性肌に悩まされている。どうでもいいですね。

これは自然の摂理。強きものが弱きものを制する、世はまさになんとか時代であるからして、クモに対しての同情心なんてこれっぽっちも生まれやしない。
彼はそう。巣を張る場所が悪かった。ただそれだけのことである。我が家の選択竿に栄光の架橋をつくってくれたところで僕はちっとも嬉しくないし、利用者もお前だけだろう。

そういうわけでものの見事に鉄の棒に絡み取られた住居。ところがどっこい。クモは鉄の棒が気に入ったらしく、棒を片付けようとしたところ糸と一緒になって付いてきてしまった。
まるでクモを吊り上げた釣り師のよう。けれどもなんだろう、どうぶつの森で大物かと思いきや長靴だったときのあの感覚によく似ている。

僕は逡巡する。こやつをどうしてくれようかと。
このまま放置するか、しからずんばこの手で殺めてしまおうか。

クモ嫌いにとって放置という選択肢はまずありえないので却下するとして、しかしこやつはなかなかできる男。
あのシンメトリー値の高いクモの巣を作る職人技、かなりの手練れである。

というわけで逃がすことにした。我が家の中に侵入してしまったクモに命はないが、外にいる分には無害認定を下している。僕は薄情なようで意外と慈悲深いのである。
けれども我が家の敷地内に逃がしてしまえば、またも同じようにご立派な邸宅を設える可能性も否定できない。いやいやお前じゃないんだからそこらへんは学習するでしょ、という批判があればよかったんだけど、残念ながらクモに学習能力はない。

というわけで僕が出した結論は、隣の家に植樹されている潅木の枝にクモの巣ごと巻きつかせるというというものであった。
ウチと隣の家の間には申し訳程度の柵しかないため、片手だけ不法侵入するのは容易である。よって誰も見ていないことを確認したのち、鉄の棒にぶら下がるクモを木の枝と葉になすりつける。ここまでに費やした時間、わずか数十秒。やはりこの男、死んだほうがいいのかもしれない。


けれども日頃から積善の余慶を盲信してやまない僕なので、たまには人間としての均衡を保つためにも悪行は必要である。
普段悪さをしているヤンキーが花を愛でていると女子からモテるときく。あれと同じ原理。


久方ぶりのクモとの格闘を制したものの、緊張していたらしくトイレに行きたくなった。
扉を開けるといつも便器が出迎えてくれる。ありがたや。

ところで、トイレというのはどうしていつもこちらを向いて待っているのだろうか。
いつも何も考えず扉とにらめっこするように坐する僕らであるが、たまには逆向きの便座があってもいいのではないだろうか。

扉に向かって座るということは、うっかり扉を閉め忘れた場合局部を晒してしまうリスクがあるということである。
一方和式便器の場合、扉から見えるのは尻の割れ目のみであり、タイミングが悪ければ茶色い何かがお目見えするのかもしれない。

なにより洋式では見られてしまったときの恥じらい顔を目撃者に見せてしまうことが辛い。
目なんて合ってしまった日には、その人の顔を思い出して寝付けなくなる。まるで恋。

 


ところが視点を変えると洋式便所の場合、便蓋というオリバーカーンがいるから、もし逆向きに座っていたら背中まで覆い隠してくれる。
こちらは恥ずかしくなく、むしろ扉を開けてしまった人のほうが居た堪れない反応を示すことだろう。

ということで良いこといっぱい。今後は後ろ向きの便座を導入してはどうだろうか。

という世紀の発見に気付いたところで、今回の記事を締めくくろうと思う。
再三言うが、書くほどのことでもなかった。