お金がほしい

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とりあえず映画「聲の形」を観てほしい

このニュースがはじめに出たのはもう数ヶ月前のことになるが、明日の2018年8月25日21:00~Eテレでアニメーション映画「聲の形」が地上波初放映されることが決定している。

僕が言いたいのは、とりあえず何でもいいから多くの人に観てほしいということだけ。
なんだったらこれだけで今回のブログを終了してもいいような気がする。

www6.nhk.or.jp


でも僕個人としてはこのブログを通じて宣伝活動をしようなどとはさらさら思わないので、ここからはいつもどおり余計な情報を付加することだけに専念するとしよう。

ちなみに「聲の形」というのは元々2011年から別冊少年マガジンに連載されていた漫画であり、今回Eテレで放映されるのはそれを元に2016年9月に全国公開されたアニメーション映画である。
Wikipediaによれば第40回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞や第26回日本映画批評家大賞アニメーション部門作品賞、第20回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞など、国内外のノミネートをあわせると更に多くの賞を受賞している作品で、興行収入は23億円以上。

最近は「君の名は。」が250億円を突破したとかで20億円なんて大したことないと思われがちだが、上映劇場数がその1/3程度であり且つ上映日数も圧倒的に少なく、さらに声優として芸能人を起用してTVで猛プッシュさせるなどという宣伝方式を採らなかった映画として20億円を突破するのは凄いことである。


ただそれ以上に何が一番すごいのかといえば、この映画のストーリー展開が非常に重い構造を持っているところであるように思う。

一般的なイメージとして、男女の高校生が出てくるものはラブコメを主軸にてんやわんやありつつもラストはハッピーエンド、という期待や推測があるのではないだろうか。
そのうえ起承転結の「転」の部分も比較的ライトなものが多く、いわゆる笑って泣けてという誰もが楽しめる作品が横溢しているような気がする。


だが「聲の形」は、そういったイメージを思わぬ方向に払拭してくれた。

学生生活・男女・人間とくれば、もちろん恋愛・修学旅行・卒業式など、ストーリーの題材にしやすいような要素がこれでもかというくらい詰まっている。
だがそれと同時に、日常生活には映画で描かれにくいような暗くてじめじめした問題も多く潜んでいる。

それは例えばいじめであったり、差別であったり、人間関係のもつれであったり。
映画「聲の形」では、これまで青春グラフィティものであまり触れてこられなかったそんな問題を、あろうことか真正面からド直球に描いている。

 

正直、初見時にはかなり衝撃を覚えた。
こんな絵のタッチで、こんなありふれた登場人物で、ここまでディープな問題に全力で首をつっこむか、と。


ありふれた登場人物と書いたが、映画「聲の形」ではキーパーソンとして耳の聞こえない少女が登場する。そこはもしかしたら「ありふれた」から外れるかもしれない。

けれどもよく考えてみてほしい。
耳が聞こえないというのは、世間一般的に見ると単純に体の機能としての問題だけなのであろうか。

人の意見に耳を傾けようとしない人や世間に興味のない人だって、あるいは耳が聞こえていないのと同義ではないのか。


そういった問題というのは世間一般では障碍や欠点として評されることもあるけれど、人間誰もがある種の不完全性を抱えているならば、それは善でも悪でもなく単なる個性である。

 

けれども、特に小学校から高校卒業までの学生時代というのは教室という狭い空間内で否応なく交友関係を築かねばならないため、どうしたって集団心理が働いてしまう。
その力が内側に向いているうちはいいのだが、排他的なベクトルを持った途端いじめや暴力に直結する。


少し話はそれるが、僕が思うに「若者ことば」というのはこういった空間が影響して出てくるものではないのだろうか。

言葉というのは一度口から出てしまったら戻すことはできないので、誰しも慎重になることはあるだろう。
僕の考えでは、それが学生の間では顕著に現れてくるのではないか。

考えてもみれば、狭い社会空間内の交友関係が密にならざるを得ない状況において言葉を選ぶ動きが多いのは当然である。


道端ですれ違うだけの二度と会わないような人になら「おい、危ないだろ!」など多少キツめの言葉を浴びせても後悔はないが、今後何ヶ月も同じ教室内で顔を合わせる相手に向かって軽率な態度で言葉を軽んずるのは愚かな選択だ。
その後のクラスの空気や自分のクラス内でのポジションを考えれば、そりゃ誰だって風見鶏にもなるしイエスマンにだってなる。


そんな状況があるからこそ、日本の若者は「若者ことば」を作ることでどうにかセンシティブなティーン世代を卒業してきた。
以前僕がブログ内で触れた女子高生の「みたいな」問題についても、もしかしたら明言を避けることにより意見の対立を未然に防ぐ一種の防衛が入っているのかもしれない。

ex-finprethe.hateblo.jp

この他にもKY(古いか!)や卍など共通認識のある記号や言葉を使うことで帰属意識や仲間意識を確認したり、ディアゴ系(古いか!)やシャカ男(古いか!)などと誤魔化しつつも陰で我々を盛大に貶すのも複雑な心理が働いていることが想像つく。

 


このように若者世代は言葉に敏感だから、映画「聲の形」において耳の聞こえない少女というのはかなりのハンディキャップを負っているように見える。
詳しいところは実際に映画を観てそれぞれが個人の感想を持ってもらいたいところであるが、そういう人物が無秩序な集団の中で生きていくのはかなりしんどいことなのではないか。

 

そういった色々なことを考えさせてくれる映画であるように僕は思った。
単に女の子が可愛いだけじゃなくて、少年少女の恋愛物語というだけじゃなくて、お涙ちょうだいの感動スペクタクル超大作でもなくて。

映画のテーマとしてはありふれたものなのかもしれないけど、だからこそリアリティがあって僕は観て良かったと感じた。

ストーリーやキャラの心理描写に関して納得いかないところも多かったし、ご都合主義や強引な恋愛の絡ませ方にやや不満もあったが、それも含めて見応えがあると思っている。

 

そして何より不思議に思っていたのが地上波の放送日時だったのだが、どうして8月25日にしたのだろうかとずっと考えていた。
6月にはすでに地上波初放送決定とニュースで出ていたし、それが少し話題になっていたから冷めないうちにもっと早く放送してもいいのになぁと思いつつも、「視聴率取るために学生の夏休みシーズンに合わせたのかなぁ」なんて考えていた。


だが、蓋を開けてみれば明日はちょうど24時間テレビの放送日。
24時間テレビといえば一昨年あたりから「感動の押し売り」「障碍者を見世物にした偽善番組」などと揶揄されてきた、オワコンまっしぐらのテレビ企画である。

しかも24時間テレビでは毎年恒例で放送開始日の21時から2時間ほどかけて感動ドラマを放送するスケジュールとなっており、その企画と「聲の形」がものの見事に被っている。


ある芸人風に言えばこれがNHKのやり方か!って感じだけど、どちらの局の愛が地球を救うのか。
チャリティもいいけれども本当に必要なのはお金ではなく人々の意識の変革ではないのか。


・・・ということで129分と結構長い映画だけど、ノーカット放送なので最初から最後まで多くの方に見てもらえればいいなぁと思っています。

 

どう見ても宣伝でした。本当にありがとうございました。