お金がほしい

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2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

駅構内のエレベータを利用することに対しての背徳感

例えば考えてみてほしいのは、あなたが電車に乗るため駅を利用する際、そこに階段とエスカレータとエレベータがあった場合どれを選択するかということである。

僕の予想では概ねエスカレータか階段に票が集まり、「優先的にエレベータを利用する」と答える人は少ない気がする。


しかしそれは至極当たり前の帰結で、エレベータの一般的なイメージとして足の悪いご老人や荷物の多い人が使うものだと普く認知されている現状があることから、自らを健康体であると自負するものはあえてエレベータを使おうという発想には至らない傾向がある。
これはエレベータのボタンに車椅子マークがあることからも容易に想像がつく。


けれども、では健常者たる僕がエレベータを使うときに感じるこのモヤモヤ感は何なのだろうか。
エレベータには来る者を拒む体質など備わっていない。誰もがボタンを押せば呼ぶことができるし、誰しもが利用する権利を有している。

それなのに駅に設置されているエレベータに乗っていると、「あぁ、自分はなんて愚かで浅ましい人間なんだ」とひどく沈鬱な気分になってしまう。
きっとそれにはエレベータという一般的なイメージの問題とは別の理由があるからに違いない。

今回はそのことについて沈潜してみようかと思う。


というかまず、エレベータが基本的に1台しかないのがいけない。

例えばエスカレータが仮に1台しかないとしても、彼は人間の動的な流れを促進するはたらきがある。
というよりエスカレータのあの...なんていうの?あの円柱を4分割したみたいなヤツが流動的であるため、人間の踏み場というのは時々刻々と無限に生産されてゆく。

同様に階段もそれ単体では動かないため、人間に自らの行動を強要する、いわば地面の延長である。


一方でエレベータというのは、人間がぼーっと突っ立っているだけで目的の場所まで連れていってくれる。
それだけでまず価値がある。ありがたや。

おまけに場合によっては自分ひとりだけが1台しかないエレベータを一時的に占有することになるので、他の人の利用は自分とタイミングがあわない限り待機させてしまうことになる。
するとエレベータを待つ人も、ならばと階段やエスカレータのほうに足が向くことになり、結果としてエレベータの相対的利用人数は減少する。

そんな希少価値を持つエレベータのボタンを簡単にポチッとできるほど僕は人間が大きくない。


おまけにエレベータというのは、否応なく見知らぬ人と狭い密室で短い時間を過ごすことになるリスクがある。

エレベータを降りればその後一生出会うことがないような人でも、空間を同じにしている十数秒の間はパーソナルスペースなどの概念を超越した関係性を持たねばならない。


エスカレータや階段ならば歩くペースを変えることで他人の干渉を避けたり、そもそも空間が開けているため全体の中の1人でいることができる。
しかしエレベータに一度乗ったら、その時点で既に参加者であり当事者なのである。

1階から2階に上がる短いようで永遠に感じられるその時間を、僕らは上を向いたりして何とか誤魔化しているものの、密接した状況で無言を貫くというのは非常に気まずい。


そしてエレベータといえばもっとも厄介な問題が、「開ボタン」を押し続ける役回りを誰が演じるのかという点である。

これについて、ひょっとしたらそれなりの論文ができるのではないかと思うんだけど、扉が閉まってから開くまでの「おい、誰がボタン押す役やるんだ?」みたいな心理戦がピリピリして怖い。

例えば同乗した人が大きなスーツケースを持っていたりベビーカーを運んでいた場合、その人はひとまずその役回りから開放されることになる。
また扉の目の前に立っている人や、開ボタンに手が届かないような場所の人も同様に除外。

残るはボタンの近く、あるいは手の届く距離にいる老人でない人間。
つまり僕かもう1人。


しかしここでもうひとつ、重要な問題が残されている。

「開ボタン」を押すという行為によって、善人を演じるというリスクである。

日本人というのは特に集団的な生き物なので、周囲から逸脱した行為を忌避する傾向にある。
だから善意を振り撒く行為は日本国においてかなり大きなリスクであるし、それを誇示するのは「おもてなし」の観点からご法度とされている。

まったくもってアホらしい文化だが、そうなってしまったのだから仕方がない。


するとここで開ボタンを押すというのは、決して善意でやっているのではないというのを示さなくてはならない。

例えば合コンなんかの集まりで女性側がサラダを取り分けるというシーンでは、周囲から「うわ出たよ。サラダ取り分けて『私気をつかえる子なんだよ』アピールか?」と思わないように、「じゃあ女子力アピールしちゃおうかな♪」なんて嘯きながらサラダを取り分けることによって軋轢を生まずに済む。
自分の行為を正当化するためにわざわざ三枚目のキャラを演じなくてはならないのだ。


んな面倒臭いしきたりを遵守して、ようやく僕らは社会に溶け込むことができる。

けれどもいるんだよ。そんなルールを一切無視して善意の暴力を振るってくるヤツ。
こっちが開ボタン押しながらもう片方の手で扉を押さえているのに、別の場所にある開ボタンを押しながら最後まで出ようとしない男。

ああいうのは善意ではなくただの迷惑なのでやめていただきたい。

「どうぞ、お先に」って満面の笑みで言うけどさ、エレベータ内に僕とその人しか残っていない状況でそこまでして僕に好かれたい?よく分からん。


でもたまに見かけるのが、善意を押し付けるのではなく素でそういうことをやっちゃう人間。高身長のイケメン風外国人の方とかね。
ああいうのはズルいなぁ~と思う。