お金がほしい

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2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

エレカシ「Easy Go」に漂う名状し難い侘しさ

正直別のことを書こうとしていたのだが、先日発売になったエレカシの新譜より「Easy Go」の歌詞を検索してみたところ、とあるサイトが一番上に表示された。

本当はそのページへのリンクを貼りたかったんだけど、ここで特定のURLを貼ると後々面倒になりそうなのでやめておく。
表現の自由名誉毀損の区別というのは非常に厄介な部分なので。


んで、なんだかものすごくクリックしたくなるタイトルだったのでクリックしちまったぜ☆

んで実際見てみたら何だこれ。
隅から隅までふざけてるとしか言えない内容。

一番下まで読んだら洗脳されたあげく「まずは1ヶ月だけお試しください」という謎の広告でうっかりワンクリック詐欺に遭いそうなレベル。
ちょーこわい。


もうね、困るんですこういうの。
アクセス数稼ぎに躍起になるのはいいけどさ。アクセス数をステータスとして振りかざすのも構わないけどさ。

こうやって歌詞の上澄みだけ掬いとって解釈だの考察だのとは業腹である。
エレカシのいちファンとして非常に腹立たしい。

きっとこれを書いた方はエレカシの歴史も宮本氏の苦悩も30周年の歩みも知らないのでしょう。
そうでなければこんな内容の記事は絶対に書けないはず。


だってそうでしょ。
映画の考察ができるのはストーリーや表情やセリフや演出が相まって、そこから象徴的に示される部分を解釈することでひとつの可能性を見出すことができるわけですよ。

セリフだけ、演出だけでは材料が不十分じゃありませぬか。

それと同じで、歌詞だけでは解釈できない部分だってあるでしょうに。


まぁ、でもね。
そのサイトの全てを否定したいわけじゃなくて、賛同できる部分もあるにはあるのよ。

あるにはあるけど、かといって素晴らしいとは絶対思わねえな俺は。


とはいえ、翻って己自身の現況を鑑みるに、歌詞の考察ができるかどうかと問われれば、まあまあだと言わざるを得ないのが大いに不本意だ。
・・・いや無理ですごめんなさい。

なにせ僕はメロディと楽器の音色しかほとんど聴いていないので、脳内データベースにある曲のうち歌詞があやふやなものは相当数存在する。


ただ、Easy Goを最初に聴いて思ったのは「なんだか泣いてしまいそうだ」という感想であった。
なぜか。


よく分からん。
よく分からなかったから、とりあえず歌詞を検索しようとして先のページに飛んでしまったがゆえに憤った←今ここ。

 

というわけでどうしてこのぶっ飛んだ曲が「前向き100%」という印象を聴き手たる僕に与えなかったのか、冒頭の歌詞から考えてゆこうと思う。

 

 

ではさっそく。

※ワンツースリーフォーとヘイッ ハイッ チョミッは飛ばします。


「俺にはやることがある」
「最高の未来この胸に抱きしめる」

普段こういうセリフを言うときってどういうときだろうと想像してみると、やっぱりマイナスな感情のときなんだよなぁ。
幸せは失って初めて気付くように、プラスな感情はあまり表出しないのが人間の性。

それこそその後の歌詞に登場する「ルーティンで電車の中繰り返す呪文のように」が一層この歌詞を象徴的に引き立てている。


宮本氏はいつもMC等で「行くぜ!」「行こうぜ!」「やるしかねぇよなぁ」と言っているが、それは自らを奮い立たせる意味合いもあるのではないだろうか。
電車に乗る時間というのは、大概の場合「行きと帰り」である。

行きは「やだなぁ。めんどくさいなぁ」という負の感情、そして帰りも「疲れた、眠い」というこれまた負の感情。
だからこそ毎日毎日、己に暗示をかけるように「最高の未来」が待っているのだと呪文を唱えているのではないだろうか。

そしてAメロのラスト。
「最高の瞬間と永遠をおまえと感じたいのさ」

これは深読みしすぎであると重々承知はしているけども、「瞬間」と「永遠」という両端の存在をあえて同時に置くことでその夢の実現度を限りなく低くしているように思えてしまう。

だがこれに関しては、そこまで悲観的な側面は多くないとも思う。


なぜなら彼は「夢を追う旅人」だからである。
別に宮本氏は夢が叶うことを望んでいるわけじゃない。

2009年、シングル曲の「絆(きづな)」では冒頭「どこまで行けば俺は辿りつけるのだろう」と嘆くように歌っていた。
しかしそんな沈んだ中年期を経て現在。齢52になり、夢を追うこと、つまり走り続けることや歩き続けることの素晴らしさをようやく掴んだ気がする。

だからこそ「あらゆる輝き届けるぜ」「最高の瞬間と永遠を感じたい」と大きな理想を掲げ、それを標榜して突き進んでいくことの決意表明にも取れるのである。


パンク色の強いBメロでは、
「剛者どもの夢のあと21世紀のこの荒野に」
である。

松尾芭蕉の名句から流用したならば漢字は「兵」とするはずのところを、あえて「剛者」にしたのはおそらく論語など古典文学の影響があるのだろうが、これはどうも音楽業界についての一文である気がしてならない。

もちろん数々の知将名将と謳われた偉人たち、その死屍累々の上で我々が21世紀を生きている。
だが彼はその後歌うのだ、「愛と喜びの花を咲かせましょう」と。

とあるインタビュー記事では、最新アルバムのジャケット写真のイメージが荒野であり、そこに写るメンバーが花であると同氏が口にしていた。

https://ro69-bucket.s3.amazonaws.com/uploads/text_image/image/297426/width:750/resize_image.jpg

この写真が夜明けに撮影されたことからも「Wake Up」「Restart」と通ずるところは確実に存在する。

ならばここで彼が歌う決意表明は、今の音楽業界に対しての声明ではなかろうか。
彼の敬愛するジム・モリソンや忌野清志郎が亡くなり、現在の音楽業界は混乱と迷走を繰り返すいわば「荒野」である。

そんな戦場に立って俺が、俺たちがやってやるぞ!と言っているように聞こえる。

言うなればAメロでは己自身に向けて、Bメロでは社会(音楽業界)に向けての決意表明ではないだろうか。


そしてそんな思いを抱いた彼は、サビ前にこう言う。

「神様俺は今人生のどの辺り」

この言葉はやっぱり彼にしか出せないものだと思う。
ともすればそれまでの歌詞が凡庸で霞んだものに見えたかもしれないところを、最後このセリフを入れてビシッと決めるあたりがやっぱりスゲェなぁと思う。


ようやくサビか。なげぇよ。。。

サビにもいくつか象徴的な言葉が飛び出す。
「転んだらそのままで胸を張れ」
「俺は何度でも立ち上がるぜ」

エレカシの面白いところというのは、宮本氏がデビュー当時から一貫してスタンスを変えていないというところにあるのではないだろうか。
もちろん曲調や歌い方、アプローチの方法に変化こそあれ、30年もの間「ファイティングマン、正義を気取るのさ」と歌い続けている。

それに、初期の曲の歌詞が中期や最近の曲の歌詞と被るところも結構あって、まさに「縄文時代から変わんねえんだよ」という感じ。


であるならば、この歌詞はきっと2002年の「何度でも立ち上がれ」と重ねてみることができないだろうか。

同曲では「何度でも立ち上がれよ 更に大きなぶざまを掲げて行け」と言っている。

2つの歌詞の間に、意味合い的にはそれほど大きな差はないだろう。
しかしEasy Goのほうがより清々しい。そして潔い。

すると不思議なもので、彼の発する「行くしかねぇよなあ」が重い腰を上げて出かけるのではなく、とても自然で能動的で軽やかなものに思えてきてしまう。

これが彼の手にした「軽さ」だったのではないか、なんて思う。

 

 

・・・2番まで書くつもりだったけど、もう疲れたのでやめます。
気が向いたら頑張ってみるけど、多分もうやらないかなぁなんて。