お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

消しカスと共に・・・

世の中には許せることと許せないことがある。
または、許してもいいことと許したくないこと、と表現してもいいかもしれない。


そしてその線引きというのは人それぞれであり、場合によっては「えっ、どうしてこんなことで怒るの?」と思えるような堪忍袋のキャパ不足を抱えている人も多い。

またその中には「どうして今ので怒るのか分からない」といったような性格の不協和音も多々あり、そうしたちょっとずつのすれ違いが離婚という引き金を引っ張り続けていることは、もはや言うまでもなかろう。


ただ、それを差し引いてもすぐに切れる人というのはどうしても存在する。

もうね、すぐに切れる。
ダメだよ、そういうの。

切れると途端に周りが見えなくなってさ。
お前は電球かよって言いたくなるのだが、でも余計怒らせることになるから言わない。


意外に思われるかもしれないが、僕はこう見えても平和主義というか、できるだけ揉め事や争いごとが起こってほしくないと望んでいるのだ。
あ、もちろん僕の半径5メートル以内での話ね。


いつからか地球平和とか、この世から戦争がなくなってほしいとか、そんなデッカイことを望むのはひどく傲慢であるように思うようになった。
だって自分の手の届く範囲ですら思い通りにいかない人生だってのに、見ず知らずの他人の幸せを心から願うなんて、ほとほと無理な相談である。


こんなことを書くと人格を疑われてしまうだろうが、僕はこれまで殺人事件のニュースを見て「かわいそうに」と思った経験は一度もない。
なぜなら僕は、その被害者のことを知らないからだ。

その被害者がどんな性格であったのか、将来有望であったのか、ご近所からの評判はよかったのか、好きな食べ物はなにか、どんな風に笑うのか。
僕は何も知らない。

だから悲しくもつらくもならず、憐れみを抱いたりもできないのだ。


その代わり、知り合いが何かの事件に巻き込まれたら万難を排していの一番に駆けつけてしまうんだろうなということも、なんとなく想像がついてしまうのであるが。

 

話を戻そう。
許せること、許せないことのおはなしであった。

例えば、僕が塾講師をしていたときのことである。

ある生徒が、塾に来たのはいいものの勉強道具一式を忘れたというケースがあった。
「いや、何しに来たのよ」というこころの叫びは胸に秘めるとして、とりあえずテキストは塾に置いてあるものを、筆記用具は僕の持っているものをそれぞれ貸して代用品とした。

つまり、僕のシャープペンシルと消しゴムと赤色のボールペンは、一時的にその生徒の所有物と化したのである。


だがそこまではいい。
僕もその生徒の使用を了承した上で貸与したし、それに僕は重度の潔癖症でもない。

だからその生徒が僕の筆記用具を使おうと使わまいと、別段気にかける理由も然してなかった。
そう、そのはずだった。


しかし次の瞬間、僕はその彼が為した行動に、目を見張るほかなかった。
吃驚して慌てふためいて、そして少しイラついた。


そう、その彼はシャーペンの上についているあの小さい消しゴムを、なんの迷いもなく使用したのである。


と、ひとまずここで現状を整理しよう。

僕は塾講師で、隣に座る生徒に筆記用具を貸している。
貸した筆記用具というのはシャープペンシル1本に大小の消しゴム合わせて2つ、そして赤色のボールペンに、予備のシャー芯ケースである。

ちなみに消しゴム2つというのは、1文字分くらいを消すのに適した小さい消しゴムとよくある大きい消しゴムのことであり、シャーペンについている消しゴムもあわせると3つの消しゴムということになる。


つまり、ここで察しのいい人なら気付くことだろう。
「大きい消しゴムで消しにくいところは、もう1つの小さい消しゴムで消せということだな」と。

実際僕はその生徒に貸しつける際に「大きい消しゴムだと消したくないところも消えちゃうから、そういうときはこっちの消しゴムを使ってね」と、小さいほうの消しゴムを手にとって説明もしてあげた。

だのにこの仕打ち。
いかんにも許しがたい。


とはいえ、僕はシャーペンの上についている消しゴムを絶対に使いたくないタイプの人種ではない。

たまにいますよね。テスト中に消しゴムを落としても絶対にシャーペンの上についているやつでは消さない人。
それから、他人がそこの消しゴムを使っているのを目撃するだけで蔑視する人。

僕は「どちらかといえば使わない」分類になるので、正直その生徒がシャーペンの上についている消しゴムを使ったことに対しての怒りは感じなかった。
むしろ僕がイラついたのは、「どうして小さい消しゴムを使わないのか」という点であり、しかしそれもまぁお互いの立場上「仕方のあるまい」とて溜飲を下げることにしたのである。


つまるところ、こういうのはクセなのであろう。
ふとしたときに出てしまうのがクセであるからして、条件反射的にそうしてしまうのはいたし方がない。

それに好意的に捉えるならば、それだけ彼が勉学に集中していたという証左でもあり、ならば僕は誇らしい。
シャーペンの消しゴムの1つや2つくらいたやすくくれてやるわい。


でも、やはり僕はどうしても思ってしまうのだ。
「いやいや、その消しゴム消しにくくないかい?」と。


僕は、シャーペンの上についているあの消しゴムは「ケーキの上に載っているミントの葉っぱ」と同じようなものだと思っている。

一応用途に適しているものの、要するに飾り。
使うためにあるのではなく便宜的、構造的に消しゴムを埋め込んだだけなのではないのかと、勝手にそう思い込んでいる。

ケーキでいうならば、ミントはたしかに食べられるが普通は食わない。そしてアレは香りがいいという名目上で、見栄えのスキマを埋めているだけに他ならない。

だって考えてもみてほしい。
あそこについている消しゴムが、一度だって消しやすかった経験があるだろうか。

消そうと思ったらよくわからないけれども黒鉛がただただ引き伸ばされて、消す前よりも余計に汚くなっている。
それをリカバーしようとして更に強くこすると、今度は紙面の繊維が少しずつ綻び始め、印刷は消えかかり紙は今にも千切れそうなペラペラ状態。

おまけに消しカスがボロボロとこぼれ始め、終いにはあんなに小さい消しゴムの上半身がポキンと折れてしまう。

こうなるともうその消しゴムはシャーペンの頭から顔を出すことはなく、その一生を暗くひっそりと閉じることになる。
大往生の末のご臨終という顛末。


そしてだいたいの場合、みなさんもこんな感じではないだろうか。

だからシャーペンの上についている消しゴムを使う機会も非常に稀で、そのレアさから逆転的に使用を忌避するようになる。
この流れはごくごく自然なこと。


そんな消しゴムが、僕の場合どこぞの中学生に貸したばかりに使用されてしまうというこの敗北感たるや。
僕がいただくはずだった彼の初めては、その生徒に奪われてしまいました。


ただ、この経験を通じて僕が得たものといえばせいぜい「色々な人間がいるなぁ」という感傷のみであり、きっとそんな記憶も例の消しカスと同様、すぐにボロボロと零れ落ちてしまうのであろう。