お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

ギリギリchop

いや、雑誌ってあるじゃない。
an・anとかCanCamとか、男性用だとMEN'S NON-NOとか、LEONとか。

そういえばクリープハイプの歌詞で「an・anってそういう意味のan anなのかなぁ」って言っていたのがあった気がするけど、ってまぁそれはいいや。


それでね、そういう雑誌ってほとんど見る機会なんてないんだけども、病院の待合室なんかでたまに見たりすることもゼロではない。
というわけでごく稀に雑誌を見たりするんだけども、正直に言うね。はっきりいって全然ダメ。

ため息出ちゃうワ。


多分なんだけども、そういう雑誌には僕に似合う服なんてありゃしないと思うのよ。

いやさ、ほら。
雑誌に掲載されている服って、やっぱりどうしても偏りが出てくるというか。

まぁそれは雑誌の種類によって変わってくるところなんだけども、ともかく「あ、やっぱ違うな」って。「これは自分には合わないだろうな」って、大概の場合はそう思う。


まぁというよりね、実のところは「雑誌に載っている服なんか着てたまるかよ」みたいな反骨精神がどこかしらに残っているからそういう考えに至るのだと思う。

「今年の流行はこれ!」とか、「今年のマストアイテムはコチラ!」みたいな、そういうノリが僕はとにかく嫌い。
流行を追いかけるってのは生きていく上で大事なことかもしれないけれども、どうせなら「あぁ何だよ、あれが今頃流行ってるのかよ」とかスマートに言っている人になりたい。

まぁ、無理なんだけども。


けれども、かといって何もかもを諦めて流行を追うっていうのは実に気に食わないので、僕はいまだに「君の名は。」も「シン・ゴジラ」も観ていない。
20年後とか30年後とか、もはや誰の記憶からも忘れ去られた頃に「そういえばあんな映画があったよね」とか言っているほうがまだ性に合っている。

まぁ来年「君の名は。」がテレビで放送されるらしいので、そのときはちゃんと観ますが。


というわけで僕はこのブログでも再三言っているように、流行とは対極にいる存在の人間である。
それはつまり、言ってみれば「普遍からの乖離」みたいなもので、世間一般的に「こうであるべきだ」という通説に真っ向から否定するレジスタンスなのだ。

だが、もちろん「いや、一番正しいから普遍なんだよな」とか思ったりすることだって沢山ある。
というか基本そう思っている。


でも僕は自分のペースで物事をおこないたい。
世の中的に「普通はもっと○○するだろ!」とか「常人なら○○しておくよね」という見解が罷り通っているのも知っているが、それでも僕は我流で進みたい。
というか、そうすることしかできない。

いやいや。
なぜかってそりゃ、答えは簡単である。

 

ギリギリじゃないと僕ダメなんだよ

 

ギリギリを追求しすぎて失敗しても、ギリギリになりすぎて思わぬ事故が起きようとも、やっぱり僕はギリギリじゃないとダメらしい。


例えば僕は中学時代、8時ちょうどに家を出なければ間に合わないのに、いつも7時50分頃に起きていた。
そして大人になった今でも、家から一番近い駅まで20分かかるところを、電車が最寄り駅を発車する20分前くらいに家を出る生活をしている。


我ながら馬鹿げている。
いつも気息奄々。髪は寝癖のついたまま、夏は汗まみれ、冬は室内との温度差で立ち眩みの日々。

なぜもうすこし改善しないのかと、自分で疑問が拭えない。


それでも良いのか悪いのか結局僕は、ちゃんと間にあってしまうのだ。
学生時代、授業に遅れるような遅刻はほとんどなく、急いでいたからといって忘れ物が多かったわけでもない。

ギリギリでも大丈夫だったのだ。僕の場合は。


つまるところ、ゆっくりだろうとギリギリだろうと、やることはさして変わらない。
朝ごはんをテレビを観ながらゆっくり摂るか、立って着替えをしながら流し込むか、結果としては「食事」という1つの結論に収束する。

それに、過去のことを悔やんでいても仕方がない。
というか、そんな時間はない。ギリギリなので、前に行くしかないんだから。


ただ、これだけは勘違いをしてほしくないのだが、別に無鉄砲というわけではないのだ。
頭もそこそこ使ってる。ウォーイェー。

いつも時間にゆとりをもって行動している人からすればいつも急いでいる人なんて「なんて無計画なんだ!」と呆れているのでしょうが、違うんだよマジで。
こっちだってちゃんと考えて焦ってるの。


ほら、現に時間に間に合っているのがその証拠。
いや、遅れたなら咎められても文句は言えないけど、息絶え絶えでも死にそうな面持ちでも、時間に間に合ったなら許してほしい。

まぁスケジュール組みが甘かったのは、そりゃ認めるけどさ。


でもこういう生活って、僕は別に悪くないと思う。
悪いと思ってたら即刻変えていますので、そうです悪いと思っていないんです。

それはなぜかというと「生きている感じがする」とでも言うのか、このくらいのヒリヒリした刺激がちょうどよく、気持ちよかったりなんかしたりして。

だって余裕持って起きて余裕持って家を出て、余裕を持って到着するって、僕から言わせればすげぇつまらないじゃない。
何のドラマも生まない。何の感情も揺さぶられない。

でもその点ギリギリの感じはどうよ。
雷に打たれたような衝撃と共に目覚め、己の不甲斐なさを後悔し、信号にイラついて、滑り込みゴールの達成感たるや。

まさに生きている。だらしなくしょうもないノンフィクションドラマが、そこには確実にある。


もはや僕はギリギリの生活に病みつきなんだと思う。中毒患者です。オーバードーズです。

だからたまに自分の都合とは関係のないところで急がないといけない時というのがあると、その緊迫感が最高に楽しくてしょうがない。
あれもやらなくては、これもそれも...あっ、こっちもまだ途中だった!みたいな絶望的な思考が大量のドーパミンを分泌して僕をエキサイトさせる。マジで止まらない。

でも皆さんもね、こういう状況に陥ったとき、ただ絶望するんじゃなくてきわどい快感に冒されて楽しめなきゃまずいんじゃないの?って思う。
うかれっぱなしとはまたちょいと違うんだけどね。

 


ほら、夏休みの宿題ってあったじゃない。
あれを早めに終わらせる人間と最後になって頑張る人間と、まぁ最後になっても頑張らない人間もいるけど、色々なパターンの人間がいるわけだよ。

実はこういう宿題に限って言えば僕は早い段階で終わらせることが多かった気がする。
少なくともテスト前以外で徹夜した覚えはない。


まぁそれはさておき、この例から考えるにこれは「性」なのではないだろうか。
最後までやれない人はきっと前世からそう仕込まれていたんだろうし、計画的にやれる人はそういう才能に恵まれたんだと思う。

これはもはや抗えない習性。現に学生時代宿題をギリギリで片づけていた人はサラリーマンになっても相変わらずギリギリのまんま。
何にも変わっていない。

だからもうしょうがないんだよ。
夏休みボケとかよく言われていたけど、そうじゃないのよ。
新学期がはじめっても浮かれているわけじゃないの。

 

ギリギリじゃないと僕ダメなんだよ。

ってちょっと待って、お願い。寒い目で見つめないで。

 

いや、それぞれが自分のペースってものがあるでしょ?
計画的に物事を進める人がギリギリの生活をしてみてくださいって言われても、多分それは無理なのよ。

それと一緒。
それぞれが自分のペースってものを持ってやってるんだから、じゃないとすぐにつぶれるぅぅぅううううううぅぅぅううう


そりゃ当然、ギリギリで生きている人はバランスなんてとれちゃいないですわ。
いつも崖の上を行くようにフラフラしてる。

それでもね、何の問題もないんだよ。
だってほら。

 

大丈夫。僕の場合は。

 

 

www.youtube.com