お金がほしい

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2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

小ネタ大放出祭り 予告

書き手の方ならば共感いただけると思うのだが、意外にもブログというのは「とある機」を逃すと情報を出しづらくなる。
少なくとも僕はそう思う。

例えばもしそれがニュースサイトだったらば、1分1秒の差が極めて重要な問題として書き手を悩ませることになるのだろうが、こちとらしがないブロガーである。

言いたいことを言いたいときに、そしてそれがどんなにテキトーだろうと反社会的だろうと「言論の自由」という盾を振りかざし好き勝手書き連ねることができる国家の敵。それがブロガー。

何となく気が向いたときにパソコンを立ち上げて匿名で嫌いな政党の悪口を書いても誰も文句は言わないし、1年前のムカついたネタを蒸し返したところで反抗してくる者もそうそう居ない。


しかしまぁ。
だからといって今更終わった選挙について書こうとも思わないし、カタルーニャ地方の問題について持論を述べようという気も起こらない。インパルスの堤下が事故を起こしたところで知ったこっちゃない。

どれもこれも、ネタの旬はとっくに過ぎてしまったからだ。

 

ブログというのは時として世間の注目を集める。
ある単語を検索したら一番はじめに個人ブログが出てきたり、ツイッターでブログ記事が1000くらいリツイートされたり。

しかしそれは決まって時事ネタか、もしくは一時的な沸騰ワードについての記事を書いたときばかり。

僕はそうした記事は書いていないため、というかそんなの書けないため、ご覧の通りもはや瀕死状態。

 

よくマンガとかの設定であるが、神や妖怪などはそれを知っている人、認識する人がいてはじめて成り立つ存在というものがある。
信仰とは要するに「誰か」が信仰の対象を創作し、それを崇めるという行為によって成立する。

つまり裏を返せば、誰も存在を知らないものなんて存在しないも同然。畢竟死んでいるのと同義なのだ。

 

そういえばワンピースのヒルルクも同じようなことを言っていたが、だとしたらこのブログは風前の灯。誰も知らない辺境のキング・オブ・オワコン。

それが当ブログです。今後ともよろしくお願いします。

 

あ、もし消えるのならば最後にどでかい花火を打ち上げて、そのついでに何人か巻き添えにして盛大に散りますのでぜひお楽しみにどうぞ。

 

 

てなわけで結局のところ何が言いたかったのかというと、このブログでもタイミングを逃して出しそびれたネタがいくつか存在するんですよねこれが。

本当はカタルーニャ問題が話題になったときにそのネタを500文字くらいまでは書いていたし、今週の話題についてもいくつか記事を書こうと挑戦したこともあった。


でもどうよ。その記事は今日という時まで日の目を見ることはなかった。
ということはそう。

もうお分かりいただけるだろう。
どれもこれも、クソみたいにつまらない内容ばかりだったからである。

 

だってこんなふざけたブログがさ、硬派気取りの政治ネタなんて書いたらどうよ?

「えっ、ちょっとイヤだわ奥さま。あのブログの人カッコつけて政治ネタなんて書いてるわよ。しかもいつもと違ってニヒルを気取った文章が寒々しいのよ!」
「ちょっとあんた、いいから放っておいてあげなさい! きっとそういうお年頃なのよ」

こんな感じの井戸端会議がそこらじゅうで開催されることは避けられない。

そんなのは絶対にイヤだ。

 


ブログというのはノートにつける日記とは違って「誰かに読まれる前提で書かれた文章」だ。
日記も文体としては同じようなものであるが、それは「誰かに読まれてもいいような文章」として書いたもの。


言葉にすると然して違いが分からないが、しかしニュアンスは大きく違う。
雲泥の差だ。


あくまで個人用の文章ならば、脈絡がなくともカッコつけようとも文章がおかしくても一向に構わない。
だって後々自分で見て恥ずかしくなるだけだから。

しかし他人に見せる前提で書くのならば、最低限お見せするだけのクオリティというものが存在するのではないかと、僕はそんな気がする。
粗末な文章で生き恥を晒すのならば潔くサイトを閉鎖したほうがよほどカッコいいのではないかと、そう思うのだ。

 

そしてせっかく書くのならばやはり面白い文章がいい。
クスッとできるものがいい。
共感できるものがいい。
誰かの気持ちを軽くできるものがいい。

 

 

ま、そんなの無理だけどね。

 

 

というわけで明日、僕のゴミ箱記事をたーくさん載せます。

なので覚悟しておいてください。

 

 

クソつまらないから。