お金がほしい

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2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

自転車における高度な心理戦

フローレンス・ナイチンゲール曰く「人生とは戦いであり、不正との格闘である」。

世の中の理不尽さなんて、数百年やそこらで変わるものではないのでしょう。
というより、むしろこの傾向がより強くなっている気もするのだが、悲しくなるので考えないのが吉。

とはいえ、顧みれば人間というのはいつも何かと戦っている。
時間だったり、人間だったり、社会だったり、性欲だったり。


むしろ我々は、無意識のうちに戦いを挑んでいたり、気づかないうちに戦いに巻き込まれていたりするもので、世界平和という単語とは縁遠い印象がある。

その最たるもののひとつが、「前から来た自転車とすれ違う」際に生じる、高度な心理戦に象徴されるものであると思うのだ。


皆さんも自転車に乗ったことがあるなら、一度や二度は必ず経験したことがあるだろう。

自分が歩道で自転車を走らせていると、前からも自転車がやって来る。
しかも、よりによって双方とも歩道の車道側を走っており、つまりどちらかが避けなければ正面衝突してしまうという状況。

我々はそうした場面でこそ、真の力を発揮することができる。

まず、最初の選択肢は
①自分が避ける
②相手が避けるまで待つ
の二者択一だ。

仮に相手側が二人以上で走行しており、横に広がっているパターンでは②を採用、相手側が空けたスペースを通行するという流れが一般的だ。
たまにこちらから近づいているのを気づいているくせに、敢えてなのか面倒臭いからなのかギリギリまで避けず、どちらも速度を落とさざるをえないパターンもあるが、それは相手側が悪いのでさっさと自害しろ。

しかし、今回はスタンダードな一対一。
どちらかが道を譲ろうと動かない限り、両成敗の末どちらも不快な思いをする羽目になりかねない。

であるならば、いっそ自分が動くべきかと思うのだが、いやしかし待て。

我々は賢者ではない。
すなわち愚者として、自らの経験に学ぶのが得策なのではないだろうか。

つまるところ、自分が動くと同時に相手も同じ方向に動いてしまうというリスクを考慮する必要性があるのではないだろうか。

そう、我々はこれを経験により認識している。善意で自分が先に動いたつもりが、相手もまったく同じタイミングで動いてしまい、その結果自転車を停止させざるを得なくなったあの日の思い出。
なんでもう一回別の方向に動くタイミングもぴったり一致しちゃうんだよ。奇跡って起こるんだね。


だから迂闊に自分が動こうとするのは、ある意味で危険が伴う行為なのだ。

大切なのは、相手側の出方をきちんと推測した上で行動すること。

つまり、相手のスペック・状況・知覚状態などを分析し、自分が動くべきか否かを冷静かつ慎重に見極める必要がある。

注目すべきは、以下のポイント。

・相手のスペック:自転車のタイプや相手の雰囲気、大まかな年齢や自転車の漕ぎ方から、相手の敏捷性や適応能力を見定める。例えば、薄いピンク色のママチャリに乗っている70代の高齢者と相対した場合、こちらが道を譲るよう動くのが適切な判断と言える。また、自転車のスペックがこちらと同じ程度だとしても、相手のハンドルがY字型で謎の音楽をスマホで流していた場合、相手が道を譲ることは有り得ないと考えたほうが良い。

・相手の状況:仮に相手側が小さな子供を前カゴに入れて走行していた場合、方向転換には危険が伴うため、こちらが避けたほうが良いはずだ。また、車道をチラチラ後ろ目に見ながら走行している自転車は、車道に出ようとしているか、あるいは道路を横断しようとしているので、あえてこちらが動かないのが吉と言える。

・相手の知覚状況:これはひとえに、相手が自分の存在を知覚しているかどうか。もし相手側が気づいていないのであれば、こちらが先に動いたほうが良いに決まっている。相手も自分も気づいていた場合は、上述の判断材料を駆使するほかない。


ちなみにここまでの思考、およそ0.5秒。


だがしかし、人生というのは読みも当ても外れるものである。
よく当たると評判の宝くじ売り場で何枚買おうと、当たらないものは当たらないのだ。

つまり、どれだけ考えようとも事態が悪い方向に転がることはある。


それは例えば、相手も同じことを考え、同じタイミングで動いてしまったパターン。もう、ほぼ運命の出会い。
数回にわたる蛇行運転を繰り返したのち、どちらかが相手の動きを読んで逆の方向に進まない限り、事態は収まらない。

最悪の場合、ご法度である禁じ手「舌打ち」をすれ違い様にお見舞いされる危険性もある。
あれほどに人を怒らせる行為があって良いのか。なぜ神は、我々の舌打ちという行為を許容してしまったのか。

そう、不運にもバッティングしてしまった場合は、どちらも悪くない。
お互いに気を遣ったばかりに起きたことなので、両者痛み分けでいいはずである。

しかし、この「舌打ち」という拙劣な行為によって、あたかも自分だけが悪いかのような、相手側に非が無いかのような。
そんな考えが見え透いてしまい、たちどころに頭に血が上った僕は、振り向きざまに「なんだコノヤロー」「うるせぇバカヤロー」と北野武の真似をしてしまうのである。


結局のところ、何をすれば正解なのか、自分が気持ちよく過ごせるのか、相手側に迷惑をかけずに済むのか。
そんなことは未来予知でもしない限り分からないので、せめて自分が後悔をしない選択をしてゆきたいと思う今日この頃である。