今になってようやくスチューデントアパシーの原因が分かった
スチューデントアパシーって何でしょうね。語幹だけ見ればかっこいいですね。
ただの無気力症のことなのに。
どうしてこうも日本人というのは横文字を好むのかしら。
サマーオレンジじゃなくて普通に夏みかんでいいじゃないですか。と僕は思うのです。
なんてね。
このように変に冷めていて世間を斜に構えて見ている、まぁつまり僕のような人物。そういう人は往々にして20歳くらいでスチューデントアパシーになります。ようこそ。
・・・ようこそってなんだよWindowsかよ。
さて、スチューデントアパシーについて説明すると、まぁ上述したように簡潔に申せば「無気力症」のことで、要するに五月病です。
名前のごとく学生、とりわけ大学生が多く罹患し、一度この病魔に犯されてしまうとあら不思議。これまで優秀だった学生が、惰眠をむさぼりカップ麺生活と落単を繰り返すダメ人間へと変貌します。
この症状の厄介な点は2つ。(出典:個人の経験による)
・そこまで深刻でない(と思ってしまう)こと
・原因と対処法が明文化されていないこと
「深刻でない」というのは、一般的にイメージされるところの鬱病のように死にたいと思うとか、食欲減退、疲労感みたいな「分かりやすく危ない」兆候が皆無な点。
スチューデントアパシーの症状では、せいぜい「大学に行く意味が分からん」「バイトやめようかな」「自炊ダルいからコンビニでいいや」と感じる程度。
これでは家族からも友人からもただのクズ人間として扱われるだけ。自分でも「なんかやる気起きないなぁ」とは感じつつも、大学やサークルでの不規則な生活が自分をダメにしているのだと決めつけ、解決しようなんて考えもしない。
「決まった原因と対処法がない」というのは、ある意味お約束というか。
人それぞれ歩んできた道のりも違えば、付き合いのある友人も悩みも違うわけですし、一概に「これが原因だ」とか「これを実行すれば治る!」なんて言えませんよねというお話。
つまるところ、手詰まりなんですわ。
この症状を症状として認識していないから対処しようなんて思わない、というか思えない。だってめんどくさいし。
仮に「この状況を打破せねば」と思えたとしても、何事にも気力が殺がれている現状ではどう動いてもマイナスに転じるだけ。
僕が今この記事を書いているのは、「今にして思えば数年前の僕はスチューデントアパシーだった」と後出しじゃんけんをしているようなもので、当時はそれが普通だと思っていたし、悪いことだとも思っていなかった。
ただ、友達と遊びに行ったときに撮った写真の目は死んでいたし、話しかけられても最低限の言葉しか返せない訥弁野郎だった僕はみるみる友達を失っていたし。
自分でも感じ悪いだろうな、とは思っていたものの、しかし人付き合いがないのも楽でいいな、なんて考える始末。
自分は内向的で排他的な人間なんだと、孤独と孤高を取り違えたまま生きていた。それが数年前の僕。
では、いかにして僕が立ち直ったのか。
・・・どうでもいいよね。でもまぁ聴いて。
立ち直るきっかけは意外と単純だった。
というか、当たり前すぎて「そんなこと?」と思う人もいるかもしれない。そう思える人は罹患率が低いから安心してほしい。
結論から言うと、僕がスチューデントアパシーを脱却したときに手にしていたのは「目的」であった。
簡単な話である。
物事を為すとき、人は普通「目的」というものを設定する。
例えば「リンゴを買う」という目的があり、スーパーに足を運ぶ。
「病気を治したい」という目的があり、薬を買う。
「野球選手になる」という目的のため、強豪校に入学する。
そういう目的意識が、まるで僕には欠けていたのだった。
思い返せば僕は、高校受験をしていない。
姉の後を追うように中高一貫校に入学したままエスカレータ方式で進学し、部活動も「誘われて」という形で入部した。
大学受験についても同様。「何をしたい」とか「何になりたい」という目的がない僕は受験勉強に身が入らず、冬休みなんて2時間程度しか勉強していなかった。
そして運よく受かった地元の大学に進学こそすれど、目的がないから何もやる気が起きない。目的がないから学友とも馴染めない。目的がないから勉強がただの苦痛に変わる。
こんな大変な思いをしていったい何になるのだと、一切を放棄したい気分だった。
僕は真っ白ではなく透明だったんだと、このときようやく悟った。
本来ならば誰もがいずれかのタイミングで悩むことだろう。高校受験、大学受験、就職活動、家庭の事情・・・。
たまたま僕はそれが大学2年生だった。
深い意味なんてなくて、単に来るべき時が来たというか、落とし前をつけるタイミングだった。
そこで僕は足掻いた。そして「目的」というものを手に入れた。
誰もが持っていて当たり前だと思う。僕はそれをいつか落っことして、それすら気付かずに進んでいたけど、ついぞそれなしでは生きられなくなっただけなのだ。
そこで受動的ではない、能動的な活動の面白さと喜びを僕は見つけた。
試合のスコアを憶えるようになった。
駅の広告に立ち止まるようになった。
旅行の思い出を忘れないようになった。
誰かに連れられてとか、誰かに促されてという受身の状態が当たり前になっていた僕は、とても視野が狭くなっていたのだ。
だから主体性を取り戻した途端、世界はこんなに様々なものがあるのだと、本当に感動したことを憶えている。
そこで僕はきっと、スチューデントアパシーを卒業したのだと思う。
こんな内容の記事は正直めちゃめちゃ恥ずかしいけど、まぁもし誰かのきっかけになれればと思い書きました。
久々のブログ更新でこの内容かよって、誰よりも僕がそう思っていますので。それではまた。