たかが知人Bにも蚊はとまる
人間誰しも生きていれば壁のひとつやふたつぶち当たることもあるだろう。
水戸黄門の歌の冒頭で「人生楽ありゃ苦もあるさ~」と嘯いていたが、けだしそのとおりだと思うことが多い。でもあの人って紋所見せるだけで解決しちゃうからあんまり苦労ないんじゃないのかな?とも思ってしまうのだけど。
しかし、そうやって葛藤して頭を抱えながら人はすこしずつ成長してゆくのだと思う。
水戸黄門様もきっと昔は苦労したんだろう。多分。
かくして人生は苦悩の連続であるわけだが、その中でもひときわ厄介な問題というのも存在する。
それはひとそれぞれ、ある人にとってはさして大層な問題でなくとも、別のある人にとってはものすごく悩ましいものだったりするかもしれない。
人の悩みというのは他人から見れば基本的にどうでもいいことばかり。というのは定石であるが、やはり悩んでいる当人にとっては大小如何にかかわらずシビアなものである。
というわけでちょっと皆さんに悩みを打ち明けたいのだけれど、お時間いただけるだろうか。
まぁ皆さんの貴重なお時間を割いていただく手前、ちゃんと悩みは最後まで書くし、解決策を求めたりはしないけれども。
女の子の相談というのは、はなから結論ありきで為されるときいたことがあるので、これも同様おたわむれ程度に聞いていただけると助かります。
悩みというのは誰かに話すだけで楽になるものなのです。
ではさっそく。
僕の悩みというのは、ビミョーな間柄の知り合いに蚊が止まったときの正しい対処法について、というものである。
これが難しい。
いやぁ、とにかく難しい。
たとえば、家族の頬に蚊が着陸して朱色の液体を啜るようなことがあれば、それはもうビンタも厭わないほどの勢いで成敗しにかかるのだけれど。
初対面時から数えてまだ3回目とか、勤め先の上司とか一目置かれている先輩とか、いわゆる「まだ絡みづらい」段階の人物と会話している最中に、どこからともなく黒白の飛行物体が現れ、そしてあろうことか着陸してしまった場合。
何気なく「服に蚊がとまってますよ~」などと言える間柄ないしシチュエーションならばいいのだが、もし仕事上のミスで注意を受けているタイミングや真面目モードの突入しているときなど、つまりはこちら側から声を発しづらい状況下において蚊がとまった場合にどう対応すべきか、という葛藤にさいなまれているのである。まじで誰か助けてくれ。
そう。
僕はかつて、同じ部活動の男子生徒と歩いているとき、彼のワイシャツに蚊がとまったものだからバチンッと叩いたわけですね。
彼とは冗談を言い合える仲だったし、いきなり殴打するような真似をしても後から釈明が利くような間柄だと確信していたので。
クリーンヒットした僕の手には天に召された蚊と少量の血が付着していて、それは圧殺に成功した証拠でもあった。
彼は「痛っ!」とは言ったものの、しかし唐突に叩いたことに関しての追及はなかった。
のだけれども。
彼の白いワイシャツには、蚊がとまっていたらしき黒い痕と血痕が残ってしまい、それに気付いた彼は激昂した。
「おい、どうしてくれるんだ」
「ふざけんなよマジで」
「洗っても残ったらどうするんだよ」
怒涛の連続口撃。その目は冷ややかに口調は冷淡に、雰囲気はたちまち曇り模様に様変わり。
僕に引け目がある手前なにも言い返すことができず、けれども「そこまで怒ることなくね?」と逆ギレしそうになりつつ、とはいえ自分の非を認めて謝罪を繰り返した。
ただ単純に蚊を殺めただけなのに、空気は最悪。
小学生男子がお互いにちょっかいを出してじゃれ合っていたら、片方の人の手が相手の目に当たってうずくまってしまうみたいな。そんなどうしようもないもどかしい空気が流れてしまうこととなった。
・・・というのが若干のトラウマとして記憶の片鱗に刻み込まれているため、うかつに手を出すことがかなわないのである。
それに、もし女の子のまわりにハエが飛んでいたとして、それを本人に指摘することは相手にとって社会的な死の宣告と等しい。
お前の頭がくさいからハエがたかっているんだけど?みたいなニュアンスをはらんだ言葉に自動昇華されてしまい、もう後には戻れない。
その女の子は泣き出し、僕は責任を追及され、なんだかんだ紆余曲折を経て2年後に結婚することにもなりかねない。いやなんでだよ。
とはいえ、言おうか言わまいか迷っているうちに蚊がどこかへ飛んでいってしまい、数秒後に相手がその箇所を掻きだすと何だか笑えてきてしまう。
それもまた失礼な話であるが仕方あるまい。いつの間にか「こ、こいつ蚊に刺されて痒くなってやんのwwwww」みたいな悪代官的思考回路が繋がれてしまい、Sっ気がそそられてしまうのだ。
-以下、妄想-
たとえば。
たとえば僕に彼女がいたとして、その彼女の頬に蚊がとまったとしよう。
その瞬間、それまで楽しげに会話していた僕の表情に緊張が走り、「じっとしてて」とだけ言って顔を近づける。
「えっ!? 何いきなり?」とあたふたする彼女をよそに、「いいから」と顔を近づけ、「おのれ、ワイの彼女の貴重な血液を吸引してるんじゃねぇぞゴラッ」などと心の中で叫びながら、目をギュッと瞑って何か勘違いしているらしい彼女の頬から不純物を取り除く。
そしていまだ状況をつかめていない彼女に蚊の亡骸を見せて、そしてひとこと。
「一体何を勘違いしていたのかな?」
赤面する彼女をよそに、ひとり勝ち誇ったような表情の僕。
うむ。悪くない。
-以上、妄想終了-
僕はなんとなくMなんじゃないかと思っていたけれど、もしかしたらSの気もあるのかもしれない。
蚊のおかげで新たな性癖に気付いてしまった。これは感謝すべきか、あるいは憎むべきか。
でもたまにいるじゃない。ゴキブリも殺さない系の人間。
僕の彼女がもし虫を殺しただけで「かわいそう」と泣くような人間だったら、ショックでもう立ち直れないかもしれない。
でもどっちにしろそんな人が僕の彼女になるわけないし、そもそも彼女ができる気配すらないので残念ながら杞憂に終わりそうだけど、しかし蚊を見たら条件反射的に殺すという行為はいかがなものか。
駅前で「命は平等だ」と訴えている集団の前で蚊を殺したら、3日後くらいに背後から音もなく近づかれて心臓のあたりを一刺しされるのではないだろうか。あれ、命は平等では?
小学校の頃、その日クモを殺した罪悪感のせいか、夢に巨大なクモが出てきてひどい目に遭った記憶がある。
悪いことをしている、という自覚は少なからずあるのかもしれない。
とはいえ、蚊もリスクを背負って人間に近づいているわけだから、運よくこちらが仕留めれば彼らの負け。
気付くことなく後から痒くなったらそれは蚊の圧勝ということで、そう考えると五分五分な気もする。
なのでこれからも僕は蚊を殺し続けるし、今後とも見つけたら始末する方向性で動くんだけども。
で。けっきょく、ビミョーな間柄の人に蚊がとまったら、どうすればいいんだっけ?