感情が死んでゆく
喜怒哀楽が激しいね、などと子供のころよく言われていた気がする。
母と姉にからかわれたときは本気で怒った。
スイミングスクールの昇級試験に落ちたときは悔し涙を絞った。
楽しいときはいつでも笑顔を絶やさなかった。
そんな男はいつしか大人になり、図体が大きくなってひげも生えて、その途中で何かを落っことしたのだろうか。
感情というものが日々薄れてゆくのを殊に最近感じている。
いや。
正確に言うならば、感情を表出する回数が著しく減少した、と表現したほうがいいだろう。
飯を食べると、「これはうまい!」と思う。
けれども「これめちゃめちゃ美味しいね」などと口に出すのが妙に憚られる。
これまで感情を出してこなかった弊害で、自分の思いを伝えるのが小っ恥ずかしくて仕方ないのである。
だから「美味しい?」などと訊かれても「うん」「まぁ普通かな」などという熟年夫婦のような会話のラリーで終了する。よくないねこういうの。
男側の言い分としては、飯の味に関して何も言わないということはすなわち美味しいということだ、と相手側に汲み取ってほしいのだが、それはわがままが過ぎるのも分かっているし、特に女性は言葉にしてほしい生き物だというのも知っている。
おまけに、外食ならばまだしも夕ご飯を作ってもらった相手に対して終始無言で箸を突いたり「普通かな」だけで終わるというのは失礼極まりない。
褒めることはしないくせに「ちょっと味が薄すぎるかな」なんて口が滑ったらもう家庭崩壊ですよそんなの。
だから「いつもありがとう」だとか「いつも美味しいね」とか言ったほうがいいのはもう本当によく分かっている。心の中では理解している。頭の中でも理解している。
でもあれなんだよ。
これまで世間で生き抜くために風見鶏を演じてきた人が感情を出すというのは、結構大変なことなんだよ。
尊敬される人間であろうとして常時毅然とした態度をとっていた人間が、隙を見せるような真似をするのは至難の業なんだよ。
だからねぇ。
どうにかしなければ、とは思いつつもなかなかうまくいかない今日この頃。
でも感情をはっきり表に出す人って、敵もたくさん作るかもしれないけど強い味方もたくさんできるよね。
大げさな表現だけど、船長と雑魚のクルーだったりリーダーとその取り巻きだったりという構造は日常にも意外と存在するもので、権力者の周りには対抗勢力のほかに強い信者も必ず存在する。
「コイツめっちゃ性格悪いな」と思う人とか「わがままの次元を超えてるだろ」という人でも、僕という敵を作りながらそれ以上にその人物を慕う者はそれなりに居るものだ。
敵と味方に限らずとも、たとえば一緒にご飯を食べる人がいて、終始仏頂面でひたすら口の中にご飯をかきこむだけの人と「これめっちゃうめぇ!」と言いながら食べる人だったら、普通に考えて後者のほうが好感度高いよね。
僕なんて最近テレビをつけては「どれもこれもしょーもなっ」と呟いてすぐに電源を切ってしまうのであるが、それよりか嬉々とした笑顔で「どれにしようかなぁ」とチャンネルを変える人のほうが断然一緒にいたいと思える。
それから最近特に思うのが、道端で子持ちの主婦とすれ違うとき。
おぼつかない足取りでお母さんの後をついていく子供の姿を見て、僕は「ぶつからないように気をつけよう」としか思わないのだが、筋繊維の弛緩した満面の笑みで赤ちゃんに手なんか振ったりして、通り過ぎてから「かわいいな~」と口にする人のほうが・・・やっぱりいいんだよね?
僕だって別に子供が嫌いなわけではないし、どちらかといえば可愛いと思っているのかもしれない。保護欲がそそられているのかもしれない。
でも「かわいい」のそのひと言が、たったそれだけが僕には言えないのである。
というわけで皆さん、今後僕がもしこのブログで「かわいい」とか「昨日のごはんめっちゃ美味しかった」とか書き始めたら、アカウントが乗っ取られている可能性があるので注意してください。