犯した過ちとティッシュはトイレの水に流せない
前回とやや内容が被るが、先日上海に行ったときのお話。
宿舎の部屋でゆっくりとくつろいでいたとき、何の前触れもなしに管理人らしきおばさんが突然入ってきたかと思うと、のべつ幕なしに中国語であーだこーだと僕らに向かって訴えはじめた。
当然ながらその言語情報はほとんど汲み取れなかったものの、しかしどうやら怒っているわけではないらしい。そして何かしらの情報を僕たちに伝えようとしていることだけは理解できた。
その上でよくよくジェスチャーやらボディーランゲージを注視した結果、おそらくだがトイレットペーパーをトイレに流してはならないと。
拭き終わった後は便器の横にあるゴミ箱に捨ててくれというような内容だった、と思われる。
あくまでこちらが汲み取っただけなので定かではないが、きっとそういうことを言っていたのだと思う。
まぁこれは日本人感覚からすれば少し、どころかかなり抵抗があるもので、汚物と臭いのついたペーパーをそのまま放置するなんて看過しがたい。
我が国ではまれにトイレの水を流し忘れていただけでも怒られるというのに、臭いを発し続ける紙を放置しておくなどちょっとありえない気がする。
けれども旅行慣れしている人の話によると東南アジアではいたって普通のことらしく、逆に紙を流した結果トイレが使えなくなる方がイヤでしょ?という言葉にあえなく論破されてしまった。
どうやら配水管が極端に狭いらしい。
ならば巨大うんこを排出してしまった場合もしかして流れずに詰まってしまい、同室の人に立派なそれを目撃されてしまうのではなかろうかなどと心配したのだが、結果から言うと杞憂に終わった。
そんなこんなで確認のためトイレへ。
言われてみればトイレの紙は厚く、拭き応えがありそうな代物である。
ベージュ色の比較的ソフトな厚紙というか、いちおう破れる心配はなさそうだ。
しかしこの厚さと感触では、トイレマスターの僕でも別の心配が浮上してきてしまう。
それは言わずもがな拭き心地の話である。
日本のペーパーはすぐに破れるくらい薄くて柔らかいので地球にもケツにも優しい。というかさっきからペーパーって打つと頭の中にピンク色の人たちが浮かぶのマジでやめてほしい。ハッハーじゃねえよ。
拭き応えと拭き心地は多くの場合反比例関係にあるので、中国では拭き応えが拭き心地を犠牲にした形になる。
ちなみに「拭き心地」という単語を僕は今日生まれて初めて使っているものの、この言葉を書くとどうにも僕の脳裏にはほろ苦い思い出が甦る。
そう、あれは数年前。
かつて僕は腹痛の波に呑まれてトイレに駆け込みどうにか窮地を脱したものの、しかしホルダーに紙がないことに後から気付くという絶望的シチュエーションに身を窶した経験があった。
その場合の対抗策として、持参したティッシュペーパーを用いるという案や隣の個室から拝借する案、あるいは拭かずに出てしまう案などが挙げられるが、パニックに陥った僕はそのときトイレットペーパーの芯に着眼してしまったのである。
「い、いや、一応はコイツも紙だし? ま、まぁ何とかなるでしょう(ワクワク」
僕のそんな甘い目論見は、ケツの悲鳴と共に掻き消されることとなる。
ひだ状のセンシティブな部位に押し当てられたペーパーの芯は、まるでやすりのようにズーッという音を立てて僕の前方から後方へと移動していった。
その瞬間、雷に打たれたかのような戦慄が体中を走り、ついでに脳内ではチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の旋律が流れ始めた。
しかし幸いなことに血は流れ始めなかったので、ベートー便ヴェンの「運命」にお世話になることはなかった。
この一件以降、僕は何があろうとトイレットペーパーの芯で拭こうなどという愚考を実践しようなどとは思わなくなった。
あれから早幾年、未だに根付く恐怖心と猜疑心を内包しながら、今日も今日とて僕はトイレに敢然と進んでゆくのである...ってあれ、何の話だったっけ?