お金がほしい

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2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

早朝の高速道路、そしてえずく男たち

我が家は地方在住ということもあり車を所有しているので、遠出するときは自家用車に家族総出で乗り込み高速道路を利用することが多い。

しかし高速道路=渋滞というイメージもあるとおり、やはり行楽シーズンともなると渋滞の直撃は必至。
自然渋滞ならまだしも事故渋滞ともなれば完全に旅の予定が狂う。あれ、この旅行の目的は渋滞にはまることではなかったっけ?という錯覚すら生まれてきてしまう。


僕の父は、理不尽な上司と使えない部下、そして信号待ちと渋滞を何よりも嫌う人間なので、予測できる限りの渋滞は極力避けようと腐心する。
そこにつぎ込む労力と言えば、片っ端から交通情報を調べて様々なメディアと照らし合わせて最善の解を導き出すまでにおよそ2時間。

しかもそのこだわりの割にいまいちネットを使いこなせないので、基本的にその調査は僕に一任される。つまり僕が一番の被害者なのだよ。


僕はあまり遠くに行くのが好きではないのだが、高速道路は比較的嫌いじゃない。
いつもはラジオもCDもかけずに無音で運転する僕であるが、高速道路では近隣住民の迷惑とか考えなくていいからガンガンに音楽を流せる。その瞬間がたまらなく愛おしい。

だから別段急ぎの用でもなければ交通渋滞もまた一興。高速道路の楽しみとして享受することもやぶさかではない。


しかしながら我が家の鉄則は渋滞を忌避するところからスタートするので、すると出発時間は早朝か深夜に限定されることが多い。
そして母は生活習慣の乱れを嫌うため、必然的に早朝出発が我が家の暗黙の了解なのである。


僕は夜型人間なので、正直早朝出発は辛い。
ここ数年、朝5時半に出発するのに前日の夜は2時くらいに就寝するからとても運転できるような精神状態ではない。

よって乗車してから朝日が町々の眠りを起こすまでのおよそ2時間程度はボーッとしたままただただ風景を眺めているのが常である。

 

そうして午前7時を回り、睡眠と覚醒の狭間でうつらううつらしていると車は左ウインカーを点滅させ、次第に速度を落としてゆく。
おもむろにカーブを曲がると、しょぼついた左目には大きな建物。そしてそれを越える広さの駐車スペース。

漠とした脳みそで「おぉ、もうここまで来たか」なんて思いながら、すると急に太陽が眩しく感じられ、さきほどまでの眠気はどこかに飛んでゆく。
もうひとつの僕の楽しみ、高速道路のサービスエリアである。


僕は人ごみが嫌いなので昼間の海老名SAなんて絶対に行かないが、早朝のサービスエリアは比較的空いていて楽しい。
車を降りると同時に頬をなでる風はまだ少しひんやりとしていて、排気ガスのにおいや唸るエンジンの音、ハンドルの上から足を投げ出して寝ているトラックの運転手。

こういう光景はきっと早起きした人しか見られないのだろうな、なんて思いながらまだ空いている駐車場を抜けて店内に足を踏み入れる。


空調の効いた店内も人はまばらで閑散としており、まだ閉まっているお店も多い。
特にフードコートなんて開いているのはうどんそば屋くらいなもので、併設されたコンビニのおにぎりはほとんどが売り切れ。

繁盛期は席探しに時間がかかるのだろうが、限られたお店の中で、それも座る人のほとんどいないフードコートでは逆にどこに座ろうか迷ってしまう。


買ってきた朝食とあまり美味しくない給茶機のほうじ茶を紙コップでいただくと、その次はトイレへ。
昼時でもほとんど行列のできないほど大量の個室トイレを用意してくれているサービスエリアでは、後につかえる待ち人の腹痛事情など気にせずにゆっくり用を足すことができる。僕は自宅トイレの次にサービスエリアのトイレが好きかもしれない。


だがどうしてだろう。
早朝の男子便所というのはたったひとつだけ、どこに立ち寄ろうと毎度お馴染みの光景が決まってそこにはある。


そう、それはおっさんのえづきだ。

爽やかな朝。100mほど先に車の行き交う音が聞こえ、駐車スペースに植えられた木からは鳥の鳴き声が耳に入る。
そして曙色と紅掛空色の入り混じる芸術的な空に響くは、子供たちの甲高い声でも店内放送でもなく、おっさんのえずき。


「おうぇっ」「おっっへっ」「ガーーーッ、うへっ」


手を洗いながらえずく者。
歯を磨きながら唐突にゲロりそうになる者。
人智を超越した場所に引っ掛かった痰を死に物狂いで吐き出そうとする者。


手洗い場に向かうと、血の混じった痰が洗面台にこびり付いて排水溝までたどり着かず水に靡いている。

この光景を前に自然と目が細くなるのは、きっと眠気がぶり返したからではない。嫌なものを見ないようにする人間の本能なのだろう。

 

こうして僕らの旅は、洗面台の痰のように何かが纏わりついたまま夜明けを迎えるのであった。