お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

街頭の募金活動に覚えた違和感

西日本で大きな災害があったことは、今を生きる者ならば誰しも知るところであろう。

するとテレビをつけてもラジオのチューニングをあわせても、途端に災害情報しか扱わなくなる。
そしてあちらこちらで声が上がる。

 

「被災者に向けた募金をしよう!」

 

話は変わるが、森かけ問題は今やほとんどの人々に忘れ去られてしまった。
モリカケ?大盛りの掛け蕎麦ですか?だなんて、んな冗談はさておき。

まぁ平家物語の冒頭に盛者必衰とか諸行無常とかあったように、いつまでも同じものを当時と同じ熱量で語るのはなかなかに難い。
だから東日本大震災のときのように、いつかきっと広島や岡山を報道するテレビやラジオの局数もいずれ減ってくるのだろう。

まれに「まだ復興は終わってない!」と東北在住の人が怒りと憎しみを綯い混ぜた声をあげるのだが、それを切り取る新聞の見出しは7年前の10分の1にも満たない。

言葉は悪いが、自然災害というのもまたある種のトレンド化してしまっている現実があると思う。


さて、そんな中で上述したように募金活動に励む方々の姿がここ数日大変多く見受けられる。

暑い中街頭に立って「募金お願いしまーす!」と大きな声をあげて通り過ぎる人々の姿を目で追いかける。

僕は東日本大震災のときも大きな額の募金をしたり行動を起こしたりすることはなかったから、そういう人たちを見ると素直に「すげぇなぁ」と感心してしまう。
偽善だの猫かぶりだのと煙たがられることもあるかもしれないが、やらない善よりやる偽善。そういう姿勢と行動こそが大切であり、それが大多数との差であると思う。


しかしながら、どうにもここ数日の募金活動を見ていると心の奥底でモヤモヤとした気持ち悪さが拭えない。
もちろん僕の心がくすんでいるから、僕というフィルターを通じて見える世界はほとんど靄がかかっているわけだが、それを差し引いて考えてもいまいち釈然としない感情が残る。


とはいえ僕にはおおよその見当がついている。
募金を呼びかけるその声が、あまりに元気溌剌すぎるのである。


「募金お願いしまーす!」
「西日本の方々への募金にご協力お願いしまーす!」

駅を抜けるとそんな声が耳に入った。
若い女性たちの声である。

その声の主を視界に捉えると、案の定彼女らは中学生か高校生の身なりであった。

「募金活動にご協力お願いしまーす!」

女性の大声というのは遠くまで聞こえる。
見て見ぬフリをして通り過ぎたあとも、しばらくの間その声が聞こえ続けていた。


けれどもその呼びかけのトーンが、僕にはアパレル店員の「ただ今タイムセール実施中でーす!」と何ら大差なく聞こえてしまった。
その声に引き寄せられた青年がお金を募金箱に投函すると、1万円分お買い上げいただいたお客様に向かってするのと同じ声で言う。「ありがとうございましたー!」

おまけに彼女らの顔をチラッと見ると、小麦色の肌をした高校生が満面の笑みで募金を呼びかけていた。

美しい。実に美しい。
顔はフツーくらいだったけど、その不純物ゼロの笑顔から感じられるのは圧倒的な善意だけだった。

素晴らしい方々だ、僕は心の中で己の浅ましさを恥じた。

彼女らからは自分たちの行いが絶対的に正しいものであると、誰に対しても胸を張ることのできる善行をなしているのだと、そういった自信の漲る様子が窺えた。


すると何もしていない僕はこう思ってしまうのだ。
彼女らは何のために募金活動をしているのであろうか、と。

悪い癖である。けれどもこういう性分はきっと死ぬまで治らない。


多分彼女らは、お金を集めることが被災者のためになると信じて疑っていない。

では集めたお金はどこに寄付するのか。寄付金はどのように運用されるのだろうか。その寄付先は本当に信用に足る団体なのだろうか。

被災地にはたしかにお金が必要だろう。お金はないよりもあるほうがいいに決まっている。
けれども「何かしよう!」と考えて手近なところで募金活動を実行した彼女らに、僕という人間はどうしても「自己満足」というレッテルを張らずにはいられない。


念を押して再三言うが、僕は何もしてない。
一円も募金せず実際にボランティア活動に赴いてもいない。そのうえ慈善の募金活動に疑問を呈している。
どういう育てかたしたらこんな子ができあがるんでしょうね。


やらない善よりやる偽善。そんなことは頭では理解している。
けれども僕の目にはやはり、彼女らの眩しすぎる笑顔が霞んで見えてしまうのである。