お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

詩歌に思弁を巡らせて

人間というのは面白いもので、暇を持て余しすぎると普段とは違ったものが目に入るようになる。

今日の午後。
予定していた用事が先方の都合で急遽ポッカリと空いてしまった数時間、僕は何をするでもなく漫然と時を過ごしていた。

こういった時間が、僕は決して嫌いじゃない。
人間は自分が幸せであるとは感じることのできないつくりになっている気がするけども、きっと時間を無為に消費する行為というのは幸せそのものだと思う。

だから生き急いだり無聊を託つことはせず、あぁ、おそらくモンスターエンジンの例のネタはこういう何も無い空間と時間から生まれたのだろうな、なんてとりとめもないことを考えていた。


その刹那、ふと目の前に置かれたペットボトルが目に入る。
自宅から持参した500mlのお~いお茶である。

僕はお茶を買うなら断然綾鷹派なんだけど、記念品や参加賞としてもらえるのは判で押したようにお~いお茶である。
ここまで頑なにほかのお茶を配らないとなると、全国区に散らばる伊藤さんを中心にした癒着問題があるのではないかと疑わざるを得ない。


という冗談はさておき、お~いお茶のラベルには俳句が掲載されているのをご存知だろうか。
「第○○回お~いお茶新俳句大賞」と銘打った小さな枠の中に、2Lのペットボトルならば3~4句程度、500mlならば1句は必ず掲載されているはずである。


けれども僕に限っていれば、普段ならば絶対にあんなの見ない。
小学校の頃、学校全体として俳句や短歌を書かされたことは何度かあったけど、いつも表彰されるのはあからさまに親に手伝ってもらったであろう句を詠んだヤツらばっかり。

10歳に風情やら情緒やらを求めるのが間違っている気がする。

というわけであまり俳句にはいい思い出がないことも手伝って基本的にスルーしているのだが、“基本的に”と明示したようにもちろん例外は存在する。
言うまでもなく暇なときだ。


新幹線に乗っているときとか絶対見ちゃう。
それで15歳くらいがめちゃくちゃいい詩を詠んでいると「どうせ誰かのパクりだろ」とか思っちゃう。お茶と一緒に心の玉露も濁ってゆく。心の玉露ってなんだよ。

そして今回も、案の定僕の視界を捉えたのはその俳句コーナー。
どれどれ、一体どんな詩を披露して下さるのかしら、なんて胸を躍らせながら眺めやると、そこにあったのはある意味予想を越えた一句だった。

 

教頭がスルメをひとつ買っていた
沖縄県 17歳

 

例えば僕はピカソの絵の凄さが分からないから、仮に誰かから貰ったらいの一番に売りに出す自信がある。
いつ聴いてもピンク・フロイドの良さが分からないし、一聴しただけでバッハとモーツァルトの区別がつけられるような才も有していない。


だけどこれは分かる。
こんな僕でもさすがに分かる。

これはテキトーに作ったやつではないのか?と。


芸術家とかその評論家とか、あるいは心理カウンセラーの人なんかは特に深読みしすぎるきらいがあるのでこの詩から何かを感じ取ったのだろう。

僕は何も感じ取れない。強いて言えばこの俳句が採用されてしまったことに動揺を隠せない17歳男子高校生の顔が何となく想像できるくらいだ。

たしかに、ね。
たしかに世の中には「言われてみればそんな気がする...」という事柄は多くて、だからこそ専門家や業界人の自信みなぎる声明が消費者の購買意欲をそそり、経済が回っている側面もある。

でも違うじゃん。
さすがに風見鶏の僕でもこれは騙されないぜ。


とか書いておいてこの高校生が狙って書いていたらそれは才能としかいえないんだけど、そのくらいちょっとあり得ない。


以前僕はこのブログで尾崎放哉さんを引き合いに出したことがあったが、あれは素直にすげぇなぁと思った。

なんてことないことや取るに足らないこと、その日常のひとコマを切り出すことで情景や心情が見えてくるというのは、もはや尊敬しかない。

だってさ、普通「咳しても一人」なんて思い浮かぶ?
思い浮かんだとして、作品として残そうと思います?

彼がなくなってからあと10年余で一世紀が経つが、そんな悠久の時を経てもなお残る名歌というのはきっとそういうものなのだろう。

 


そういえば今日は奇しくも7月6日。サラダ記念日である。

サラダ記念日と言えば作者は俵万智さん。これは本人もネタにするくらいなのでいいと思うが、まだ50代の現役ママ。生きています。
教科書に載っているため、小学生には死んでいると誤解されがち。


サラダ記念日も自身が出した歌集のうちの一篇なんだけど、これ。

 

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 

はじめに聞いたときはピンと来なかったが、いつの間にか自分の中に定着していてふと気付いたときかなりの衝撃を受けた。
そしてその時の感情を敢えて表現するならば、彼女を天才だと思った。

正直、自分で書いておきながら僕はこの「天才」という言葉が好きではない。
なぜなら文字にして2文字、音にして4文字、たったこれだけでその人を表現できるほど、この言葉は万能ではないからだ。

天才と評される人は、この2文字で自分が片付けられることに対しての苦悩や葛藤があると聞く。

けれども僕には、この言葉以外をもってして彼女を形容することができない。
それに彼女をそう呼ばずして、僕は一体誰を天才と呼べばよかろうか。

これは僕自身の逃げなのかもしれない。決して届かないという諦めなのかもしれない。
でも僕は、凡人というのは、自分のなし得なかったことをやってのけた人を天才と呼ばずにはいられない。

だからもし天才と呼ばれて苦しんでいる人、あるいは心底辟易している人がいるならば、誤解を解かせてほしい。
僕らがあなた方をそう呼ぶのは自分のためであって、誰かを思ってのことではない。

白旗を掲げた人間の、せめてもの防衛機制なのである。


でも、それゆえまっさらな心でその人の凄さを見つめることができる。
「天才だと思う人」というのは「尊敬する人」とはまるで違う。

あくまで僕個人の意見だが、尊敬する人というのは永遠のライバルなのではなかろうか。

尊敬する人として挙げた名前の人のことをいつも考え、「あの人ならどうするだろうか?」「あの人に追いつくにはどうすればいいだろうか?」
そう考えているうちにいつしか人はこう考えるようになる。

「あの人に勝ちたい」と。


その点、天才と評した人には初めから敗北宣言をしているので、安心して上を見上げ続けることができる。
死んだ人にずっと恋しているような、そんなロマンチックな美学を感じ続けることができる。

 

 

だからこそ僕はやっぱり「尊敬する人は?」という質問に「父親です」と答えるのは、何か違う気がしてならないのである。