そして叔父になる
夕刻になると、赤く染まった家屋の壁を横目に自転車で帰路を急ぐ。
古びた住宅街の換気扇から焦げた醤油の匂いや焼き魚の独特な香りが鼻腔をくすぐり、自転車を漕ぐスピードがより加速する。
友達と並んで歩くランドセルの子供や杖をつきながら歩くお年寄りを避けながら、僕はひたすら前に進んだ。
いつになく感傷的な気分だった。
自分の卑小さとか世間の狭さとかそれと比べた世界の広さとか、どうしようもなくとりとめもないことばかりを考えて、頽廃的な気分に陥った。
というのも、2歳上の姉がどうやら子供を身籠ったらしい。おめでたい話である。
まだ20代中盤だというのに先日籍を入れ、旦那と一緒に挨拶に来て、母が感動のあまり泣いて。
それからまだ数ヶ月だ。
正直気持ちの整理がつかなかった。
姉は生理が止まったのだろうが、時間が止まるわけではない。僕には彼女らの同棲生活の実情なんて知らないし興味もないけれど、その報せには素直に驚いた。
と同時に気付いた。
「あれ、てことはつまり僕が『おじさん』になるってこと?」
恋愛経験がほぼ皆無な僕からすれば結婚なんて夢のまた夢のような話で、ましてや妊娠・出産まで至るともはや都市伝説レベル。
まだ安定期に入るには数ヶ月を要するそうだが、それでも前準備は着々と進めているらしい。
姉の旦那は好青年で、前々からどうしてウチの姉なんかと付き合っているのだろうかと疑問に感じていた。
結婚の申し込みに自宅に来た際、僕の父は彼に思わずこう言った。
「ホントにこんなのでいいの?」
姉が家を出たのは、僕がまだ高校生の頃だった。
とにかく田舎がイヤで都会に出たくて、それっぽい理由を見つけては上京の理由に利用して、逃げるようにして一人暮らしを始めた。
それから数年後に彼氏ができたと報告があり、今回は珍しく長く続いているなぁと思った矢先の結婚報告だった。
姉の旦那曰く、数年付き合ってみて、その後1年同棲して、それでも気持ちが変わらなかったり価値観の相違が許容範囲内だったら結婚を決めようと考えていたらしい。
生きてる年数が数年しか違わないのにここまで周到というか計画性があるともはや太刀打ちできない。
おまけにパートナーとしてウチの姉を選んだのだ。
姉には「奇特な方がいて良かったね」と言ったが、僕はその彼のことをとても尊敬している。
姉は連休になるとたまに自宅に帰ってくるが、家族の間でも価値観の相違が激しい。
ひとりだけ考え方がズレてるし、姉の幼少期の写真は沢山残っているけど、未だに僕は彼女が義理の姉的な存在なのではないかと疑っている。
そのくらい浮いていて、だからこそ早々に家を出た。
淡白なようで実は寂しがり屋で、けれども気は強くて精神は図太くて。
自分の姉でなくても、間違いなく恋愛対象としては見れないと思う。
だけどそんな姉もささやかな幸せを見つけて愛を育んで、今度は母になるというのだ。
きっとこの先大変なことばかりだと思うけど、でも僕の姉は不器用ながら何とか生きてきた。
性格が決していいとは言えないけど彼氏と長く続いて結婚までして、来年には両家合わせて友達50人くらい呼んだ結婚式も挙げる予定だ。
僕はただ弟としてそこにいるだけの存在で、いつも彼女の背中ばかり見てきた。
子供のころはお下がりの服を着て、姉を追いかけるように同じ中学に進学して、ただなんとなく、姉が行ったから僕も東京に行くような気がしていた。
でも僕と姉はやっぱり全然違う。
僕は東京に憧れは抱かないし、散々文句は言うけど田舎暮らしが大嫌いなわけでもない。
あまりに遠くに行ってしまったから背中が見えなくなっただけなのかもしれないけど、僕は僕で姉とはまったく違う人生を歩んでいこうと思う。
そして僕は、叔父になる。