小さな雨宿り
それは、とある休日の昼下がりのことだった。
近所のスーパーマーケットに出かけた僕はその帰り道、突如として降り出した雨に思わぬ足止めを喰らい、シャッターの閉まった商店街の一角で雨宿りをしていた。
夕刻から次第に雨になるとお天気お姉さんが言っていた。それを鵜呑みにしたのが運の尽きだった。
天空はどこまでも続く灰色の雲で覆われ、しばらくの間身動きは取れそうもなかった。
「しまったなぁ、傘持って来ればよかった。・・・これからどうしよう」
考えても答えの出ない自問自答と、取り返しのつかない後悔だけが脳裏を掠める。
ポケットに入れたスマートフォンを確認すると、ちょうど1時30分から31分に変わるところであった。
思えば暇つぶしがてら買い物に出かけたというのに、いざ何もできずに時間を浪費せざるを得ない状況に陥るとひどく無駄なことをしているような気がしてしまう。
もし数十分前、玄関で靴を履いている最中「もしかしたら雨が降るかもしれないな」と、たったそれだけを思考していれば、あるいは今ごろ家に帰ることができていたのかもしれない。
とはいえこれもあとの祭り。アフター・ザ・フェスティバル。違う、それは祭りのあと。
今はせいぜい、購入した商品がナマ物でなくて良かったと捉えるのが精一杯。
もともとマイナス思考気味な僕がどんよりした曇天の下で思いつくプラス要素など、所詮この程度でしかない。
ときおり目の前を通過する車と極端に減った歩行者の姿を眺めながら、我にもなくそんなことを考えていた。
するとその時だった。
僕の右目には、それまで決して視界に入ることのなかった存在が映し出された。
「あぁ~結構濡れちゃったなぁ」
走りながら近づいたその影は、そう言って水滴の付着したパーカーを両手でバサバサとはらった。
横目にその姿を確認すると、それは後ろ髪をひとつに縛った、僕と年齢が大差ないくらいの女性であった。
どこかに出かける予定でもあったのだろうか。その格好はしっかりしていて、灰色のパーカーにタイトなジーンズと、肩には白を基調とした合成皮革のショルダーバッグを抱えている。
そしてどうやら彼女も僕と同様、出かけるときに傘を持ち損ねたらしかったことは見るに明白だった。
ここで一般的な男子諸君ならば、同じ時間に傘を忘れて同じ場所に避難したというたったそれだけで運命とやらを感じてしまうに違いない。
だが僕は違う。
リアリスティックでペシミスティックな僕は、そんな非論理的かつ感情的に事を荒立てるような真似は断じてしない。
何事も性急に対応すると必ず取りこぼしが出てくる。急いては事を仕損じる、というやつだ。
だから僕はそれまでと変わらないよう自然に、表情はあくまでクールを貫いた。
・・・とはいえこの状況、もしかして挨拶くらいはしたほうがいいのではないだろうか。
少なくとも彼女と僕は知り合いではないが、お互いこのスーパーマーケットに徒歩で向かうくらいの距離に住んでいるとするならば言うまでもなくご近所さんである。
地域間でのコミュニティ結束をより強くすることで空き巣や誘拐などの犯罪抑止力にもなりうるため、誰かを見かけたら挨拶、というのは田舎の基本である。
しかし、この時点で彼女が雨宿りしてからすでに1分ほどが経過していた。
出会いがしらに挨拶というならばまだ分かるが、出会ってから1分後に挨拶というのもなんだかおかしい。それに「もしかしてこの人、私に気があるの?」とか勘違いされても困る。
という言い訳を呪文のように繰り返して、結局僕は終始押し黙ったままだった。
だが、そんな流れを打破したのは彼女のほうであった。
同じシャッター前に退避したことを後ろめたく思っていたのだろうか、ショルダーバッグから取り出したハンカチを髪に当てながら僕に向かってこう言った。
「いやぁ、いきなりでしたね」
・・・えっ何が?何がいきなりなの?ねぇ何が!?
いきなり話を振られて完全にテンパった僕。
「あ、そうですね...」
ジョコビッチもびっくりの超高速ストレート球にて、見事なまでに会話がワンラリーで終了した。
僕は己自身の会話力の低さを嘆いた。どうしてこれまで美少女ゲームを沢山やってこなかっただろうかと。
僕たちの間には再度沈黙が訪れた。今だけは雨音が心地良く、気まずさを覆い隠してくれる雨に深く感謝した。
それから彼女が「いきなり降ってきましたね」と言おうとしていたのだと気付くまで、僕はさほどの時間を要しなかった。
するとたちまち、心の中では「天気予報では夕方からって言っていたはずなんですけどね」だとか「近所だったので傘を持ってくるのを忘れてしまって...」だとか、もっと良い返しができたのではないかという悔恨の念が押し寄せてきた。
今同じセリフが来たら間違いなくさっきよりマトモな返事ができるはずだと、無意味な会話シミュレーションばかりを脳内でひたすらに繰り返していた。でも、そうするほかなかった。
雨はまだ止む気配がない。
それどころか、雨宿りを始めた頃よりも心なしか雨足が強まっているようにも思えた。
ならばいっそ、ずぶ濡れになったとしても今のうちに家に帰っておくべきではないのか。
これから雨がひどくなる一方なら、終わりの見えない待機などいますぐやめて、早急に引き返したほうが良いのではないか。
そう思った。
だが同時に、どういうわけか今のこの時間がどうしようもなく愛おしく、手放すのが名残惜しいように感じた。
ここで僕が走り去ってしまえば、何か大切なものが失われてしまうような、そんな気がした。
というわけで、どっちつかずの曖昧な感情を抱えたまま僕は雨宿りを継続することにした。
目の前を通り過ぎる人の数はさらに減った。
その代わりに車の数が増え、僕たちの目の前を通り過ぎた少し先では、タイヤが道の端にできた小さな水溜りで飛沫をあげていた。
と、ここでどこからともなく携帯の振動音が聞こえた。
ポケットをまさぐるが、僕の携帯は微動だにしていない。
ならば彼女のほうか、と思ったときにはすでに彼女が「もしもし」とスマートフォンを耳に当てているところだった。
他人の会話を盗み聞きするのはよくない。
だが、どうしても聞こえてしまうから聴いてしまう。
電話の相手は低い男の声だった。
すべては聞き取れなかったが、迎えに行くとか車とかという単語はキャッチできたので、おそらく彼女の父親だろう。
するともうじき彼女の元には家族が迎えに来るわけで、僕は当然のことながらひとりに戻る。
そう考えた途端、これまでひとりきりが寂しいなんて思ったことはなかったはずなのに、えもいわれぬ寂寥感が僕を襲った。
いつの間にか気まずいはずだったこの空間が、僕の中では心地良い空間になっていたらしい。
そんなことを感じた。
もしそうならば、だとしたらこの感情は―――。
ややもせず、僕らの目の前には1台の黒いワンボックスカーが停車した。
隣では慌ただしく鞄にタオルやら携帯やらを詰め込む彼女の姿があり、この車が迎えに来たというのはすぐに分かった。
そして彼女が車に乗り込もうとすると、助手席の窓が開き、運転席のほうから声がした。
「単3の乾電池は買ってくれたよな?」
こちら側から運転手の顔までは見えなかったが、それはさきほど電話の向こうで耳にした低い男性の声だった。
「えっ...あっ!ごめん!買い忘れてた!」
彼女はひどく取り乱した。
「マジかよ!それがないと今から困るって言ったじゃねぇか!」
彼女の混乱に呼応するように、男性も語気を荒げている。
「どうしよう...今からじゃ遅いかな?」
「無理だな、現時点で遅刻ギリギリだかんな」
事情はよく分からないが、どうやら2人は単3の乾電池をご所望らしい。
そしてそれは彼女が買い忘れ、しかし今から買いに行っているようでは間にあわない...と。
ここで僕の心拍数は、人知れずグングンと高まっていた。
なぜなら僕は彼女らの欲する単3の乾電池を、今この手に持っているからである。
そう、僕が買い物に出かけたのは切れた乾電池を購入するためでもあった。
それは単1でも単4でもなく、彼らの欲するものと同じ単3の乾電池。
もうここまで来たら、さすがの僕も運命とやらを感じざるを得なかった。
「あの!」
勇気だとか度胸だとか気恥ずかしさとか、そんなことを考える前に僕は声を発していた。
「もしよろしければこれ...使いますか?」
僕は白いビニール袋の中から乾電池を取り出した。
「えっ!? で、でも・・・」
突然の申し出に、彼女は混乱した眼差しで僕を見つめた。
するとこの様子を窺っていた運転席から「え、誰?」という問いかけがある。
「雨宿りで偶然居合わせた人だよ、全然知り合いとかじゃなくって」
フォローするように、すかさず彼女は運転手に返答した。
「えっ、マジでそれ乾電池? なに、くれるって?」
運転席から聞こえる声が、一種の興奮を帯びたような声音に変わった。
「あの・・・ホントにもらっちゃっていいんですか?」
「全然大丈夫ですよ、どうせ100均ですし(笑)」
不安と申し訳なさを綯い混ぜた彼女に、僕は精一杯の虚勢をもって応じた。
たちまち運転席からふたたび声がかかる。
「くれるって言ってくれてるんだから貰っておけよ! マジで時間ないんだって!」
「ちょっと、そんな言い方......でも、もらいます! あの、本当に、本当にありがとうございます!」
彼女は何度も何度も深々と頭を下げ、そして車に乗り込んだ。
車に乗ってからも、僕のほうを見てはそのたびに頭を下げていた。
彼女を乗せた車はその場で方向転換をし、今度は運転手側の窓がこちらに向いた。
「マジ助かりました! ありがとやしたぁ!」
窓を開けた先に見えた男性は、ガチガチに固めた金髪にサングラスをかけ、黒のジャケットを着てガムを噛んでいた。間違いなく僕の一番嫌いな人種であった。
そして何よりも彼はどう見ても父親ではなく、どう見ても彼女のボーイフレンドだった。
「あ...いえ」
僕が呆気に取られているうちに、車はアクセルを吹かしあっという間に僕の視界から姿を消していってしまった。
思えばどうして僕は、声だけで男性を父親と判断したのだろうか。
どうして彼氏という可能性を少しも考慮しなかったのだろうか。
・・・いや、こんなことを考えてどうなるんだ。
所詮僕と彼女はただ数分の間同じシャッターの前で雨宿りをしただけの間であり、それ以上でもそれ以下でもない。
ただ僕の青臭くて淡い恋物語は、はじまりを迎える前に音もなく終わっていった。
まぁ基本雨の日というのはね、外出たくないから。大概こういう妄想を脳内で巡らせながら家の中でボーッとしていることが多いですね、えぇ。
と、これでいいのかな?
◎今週のお題「雨の日の過ごし方」