お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

君は背負った鞄の大きさを知らない

発達心理学において有名な事柄のひとつに、ピアジェの「三つの山問題」というのがある。

簡単に説明すると、高さの異なる三つの山(のオブジェ)を置き、それを別の方面から見たときどのように見えるか、という試行実験。

ちょっと僕の稚拙な文章だけでは伝わりにくいと思うので、こちらのwebページを参照させていただく。

https://www.edu.shiga-u.ac.jp/~watanabe/sub2-1.htm

このリンク先にある山はX,Y,Zの3つであるが、一般的な成人ならば「Bの位置からYの山が完全に見えるか」という問いに対して正しく答えられるだろう。

答えは当然ノーだ。
文中にZの山が一番高いとあるので、Yの山を見ようにもZに阻害される。

そんなこと誰だって分かるだろ、馬鹿にしてんのか。と気分を害された方もいるかもしれない。
でも、そのくらい僕たちは「できて当然な問題」という認識をしている。

だが、この問題の回答者が3歳や4歳などの幼児になると途端に、正解率は極めて低くなる。
もう少し捻った問題にすると、10歳児でも不正解者が出てくる。

このように、子どもというのは他者の視点が欠如している。
自分が他人からどう映っているのか、どう見られているのかという第3の目が気になり始めるのは、つまりその萌しであろう。

だからこそ、親ないし保護者が他者の目の役割を果たさなければならない。
これは教育とかそういうレベルのものじゃなくて、もっと上流の話。

 

ところが最近いるんです。そうした成長過程を経ているはずなのに、どうにも他者の視点が欠如している連中がやっぱりいるんです。

僕はちょっとだけ怒っているんだけど、バスや電車なんかに乗っているとよく学生と鉢合わせする。
彼らはどういう訳かほぼ100パーセントの割合でボストンバッグを背負っているんだけど、これが邪魔で仕方がない。


鞄を背負っていること自体、僕は別に悪いことだと思わない。
最近は教科書を持ち帰るように言われているだの、鞄を重くすることがある種のステータスみたいな風潮もないわけではないだろうから、「それ閉めるのに何分かかったの?」と思わず訊ねそうになってしまうくらいパンパンに膨れ上がった鞄を持っていても、そのことは問題ではない。

では何が問題か。
それは、彼らが鞄という存在を綺麗に忘れ去ってしまっていることである。

例えば混み合った車内で、降車する人が人ごみを掻き分けて扉に向かうとする。
そこで扉付近に立っている学生も、当然スペースを空けようと動きはするのだ。

だが、それが全然足りない。
自分は避けたつもりでも、背負った鞄がいまだ通路を塞いだままなのである。
しかし彼らはそれに気付かない。

それどころか、「頑張って避けてるのにどうして通らないの?」という眼差しで後ろを振り返ることもしばしば。

これはいかんだろ。
一番マズい点は、彼らがその状態を「スペースを空けている」と誤認しているところにある。

本来ならば背負った鞄を考慮した分のスペースを確保すべき点を、いつの間にか鞄をマイナスして考えているためこのような事が起きてしまう。


他にもホームで電車を待っている人たちに似たような問題がある。

僕らは知らず知らずのうちに「電車は降りる人優先だから、乗る人は先ず降りる人を外側で待たなければならない」と教育されている。
そのため扉が開く前から中央で待っている人は比較的少ないのであるが、かといって外側に避けていればそれでいいというわけではない。

中には、人は避けても大きなスーツケースを扉の目の前に置いて待っている人もいるし、降りてすぐの階段への通路を完全に塞ぐように立っている人も多くいる。

でも世の中そんなことを挙げていればキリがないので、さすがに毎回そういった連中にイラだっているわけではない。
ただ僕が言いたいのは、「ルールはちゃんと守っている」という矜持を抱えたままで無礼をはたらく人が多いのではないかということ。

「自分はちゃんと避けている」「自分はちゃんとルールを遵守している」という思い込みから自分のおこないを顧みないのは、まるで上に書いた実験みたいじゃないか。

見えているものが全て正しいのは幼児までで、他者の目が気になるなら、綺麗に見せるため化粧をするなら、つまり大人になったならば他者の視点を内在化させることも必要なのではないかと思う。