羨望と嗤笑
なんだか普通にブログの記事を更新するのがものすごく久しぶりな気がする。
かれこれ1ヵ月半近くシリーズものを書いていたので、文章を鬱積した負の感情とくだらない妄言や思惟を添えてアウトプットするという習慣がしばらく途切れていた。
まぁ、だからといってこの1ヵ月半の間にネタのストックが溜まったかといえば別段そういうことはなく、結局月日が経とうと他事に現を抜かそうとネタ切れという深刻な問題は何ひとつ解決されなかったわけだ。
時の流れが全てを洗い流してくれるとかいうけどアレって嘘だよね。
洗い流すのは全部綺麗なものばかりで、結局のところ汚物はウンコ同様こびり付いてなかなか落ちてくれない。
そりゃ風化とか侵食とかで事実に対する意味合いが変わってくることはあるだろうけど、そんなのたいていの場合どうでもいいやつばっかり。
だから本質は一切変わらないまま、恐ろしいくらい新鮮な眼差しで隣にいる。
人間そんな簡単に変われるものじゃないからしょうがないんだけど、トラウマとかイヤなことを忘れたりとか、そういう便利な機能がついていればいいなぁなんてたまに思ってしまう。
そういうマイナスの自分があってこそ今の自分がいるのだと、そんな事実を無碍にして。
ここにきて殊更語るようなことでもないけど、僕は「自分大好き!」と思ったことがほとんどない。
でも皆さんも何だかんだそうなのではないだろうか。
もちろん「こんな自分は割と嫌いじゃない」と思うこともあれば「あぁ、こんな自分なんていっそ死んだほうがマシなんじゃないか」とか「今自分が死んでもどうせ世間は何にも変わらないんじゃないか」とか考え始めて、海の向こうに沈みゆく夕陽を眺めながら自分というちっぽけな存在に思いを馳せたりなんかして。
あれ、これってもしや鬱なんじゃないの?
ただ、こういう風に思弁を巡らすことができるのもまた、あるいは幸運なのかもしれないと最近は思い始めている。
つい先日AO木くんとちゃんこ鍋を食べに行ったのだが、その時「俺たちみたいにあーだこーだ悩むことなしに生きていけているヤツらが羨ましいよな」なんて話をした。
まだ20代前半だというのになんて重い話だろうか。
いや、2人揃って恋人のひとりもいなければ、そりゃ重苦しくもなるって。
AO木くんは高校の陸上部時代からいまだに暗中模索期を生きていて、そして僕ももしかするといまだに高校生のあの時代から抜け切れていないのかもしれない。
付き合いのある友人は皆高校時代の人たちばかりで、学習塾の講師時代には中学生や高校生と友達のように話したりもしたし、もしかしたら今もなおそんな過去を引きずっているのではないだろうか。
今の社会は大人になれない大人が多いと聞く。
前にそんなようなことをこのブログでも書いた気がするが、僕だってご他聞に漏れず過去と現在の狭間でつっかえているのかもしれない。
人間は未来を考える生き物であるのに、僕の未来にはまだ捨てきれない過去が渦巻いている。
それら一切合財を放り投げてまっさらにしようなどとは思わないけど、でもやっぱり正しい生き方ではないんだろうなぁ。
一方のAO木くんも、詳しくは聞いていないがやっぱり高校生時代に対する郷愁が残っているようで、そのあたりに関して箸で鍋を突きながらいたく共感していたものだった。
話が逸れたので上述の話に戻る。
が、厳密に言えば悩みを抱えずに生きている人間はおそらくいないだろう。
ほんの些細なことでも、人には決して言えないことも、あるいは悩みがないことが悩みという人だっているかもしれない。
まぁ人間の場合悩みというのは大概取るに足らないようなことをいつまでもウジウジ悩んでいたりするので、その大小は測ることができないんだけど。
それでもやはり、言い表しようのない虚無感とか押し寄せるような焦燥感とか、20代前半だからこそ行き急ぐ若者にありがちな悩みを抱えて生きてゆくのは辛い。
前述のように時の流れは解決してくれないし、原因も分からないし対処法も分からない。
気付いたら罹患していて、そしてきっと気付いたらいつの間にか終わっているのだろう。
だから、そんな僕らと対極にいるような人たちのことが羨ましくて仕方がない。
「友達とはしゃいでいるとき、自分の中にもう一人の冷静な自分がいる」という当たり前の事実を、さも凄いことかのように語ることができる人が羨ましい。
羨ましくて妬ましくて、だからこそ心の中では全力で罵倒する。
僕らの通っていた高校は進学校だったため、進学組と就職組で明確にその構造が存在した。
僕ら進学組は就職組のことを馬鹿だの脳筋だのと罵り、一方の就職組は僕らのことをガリ勉やら陰キャと貶める。
人ってやっぱり自分が一番かわいいから、どうしても自分という存在を正当化したくなってしまう。
すると正反対にいる人を貶めないと相対的に自分が優位に立つことはできない。
マツコ・デラックスが何かのテレビで昔、このようなことを言っていた。
アイツら(僕たちのような人)は、「ウェーイ」って騒ぐヤツラを心の中では「いいなぁ」と思いながら全力で馬鹿にしてんのよ。
あまりにも正鵠を射た表現に、思わずテレビの前で固まってしまったことを思い出した。
でもやっぱり自分は特別だと思いたいじゃない。
人とは違う何か、絶対的でスペシャルな何かを有していて、唯一無二だと思っていたいじゃない。
匿名のアンケート調査でも少し背伸びしたくなるでしょ。
『人から「面白いところに気がつくね」とよく言われる』という項目にチェックを入れたくなるでしょ。
アイツらとは違うんだ!俺は違うんだ!って、俯瞰ではなく盲目的にそう思いこんでいたいじゃないですか。
それが自分の中の軸となるなら尚のこと、そう信じることができる人たちはやっぱり羨ましいなぁと。
それでもっていつの日か絶対的な自信を打ち砕かれて挫折して、そして試行錯誤の末這い上がってくるような、少年ジャンプの主人公が羨ましい。
・・・まぁ、でもね。
数年後には「俺たちは一体何に悩んでたんだろうな」「何があんなに俺たちを苦しめていたんだろうな」なんて笑いあう日が来ると知っていても、こうして悩むことができている現実が意外と有難かったりもするわけで。
だとしたら今は今で悪くないのかもしれないなんて、思っちゃったりもする。
ユトリ溢れる日々 そんなのが今は怖いから 悶々と悩める自分を好きでいたい - B’z 「Man Of The Match」