お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

ちょっと今からバイトやめてくる

というか、この前やめてきた。

このブログ内でも度々触れているが、僕はかつて塾講師のアルバイトをしていた。
それも1年半近く勤務していたので割と長期だったと思う。


だが、元々僕は人と関わるのが不得手であったことや、そもそも他人に何かを教えられるだけの技量を持ち合わせていなかったことから退職を決意した。
退職、と書くとやや大げさに思われるかもしれないが、要するに暇な時間が増えただけのことである。


たしかにあの当時は週5日くらい入っていた時もあったし、車で30分近くのところまで通わされたこともあったけど、でも職場環境は良かったため「辞めよう」と思う決定的な理由が見当たらなかった。

塾講師は、仕事としてはある程度パターンが決まっていることが多い。
人によって教え方が違ったり速度を変更したりという差異はあるものの、基本的に「死ぬほど疲れた」という経験をすることはなかった。


だから毎日「いつ辞めようかな」と考えるような事態には至らず、それが慢性的に続いたことにより結果的に1年半もの期間を塾講師アルバイトとして過ごすこととなった。
別にそれが悪いことだとは思わないし、むしろ学生アルバイトとしては比較的時給のいい場所で働けたことは金銭的にも大きなプラスとなった。


でも、僕はずっとそんな生活をしていた。
いつしか週5勤務や配属先変更が普通になって、アルバイトを中心に据えた人生になってしまっていた。

そしてそんなとき、見かねた母親が僕に言ったのだ。
「たかがアルバイトが、何をそこまで本気で働いているんだ」と。


そう、僕は塾講師アルバイトが人生初の勤労だったため分からなかった。
「やれることはできるだけ精一杯頑張ろう」と、そう思っていた。

そして気付けばいつの間にか、僕の体は社畜体質へと肉体改造してしまっていたのだ。


でも、それも決して間違いではないと思う。
間違ってはないし、理想像でもある。

ただ、それは塾サイドからすれば「低賃金で言うことを何でも聴いてくれるカモ」である。
僕は自ら志願してそのカモの役を演じていたということだ。

それに気付いたとき、「これはよくない」と思った。
僕は働いていたつもりで、都合よく働かされていただけなのだと思い知らされた。

考えてもみれば、バイトなんて会社側からすれば真っ先に切り捨てることのできる存在だ。
だから責任も薄く、よって給料も低く、仕事内容も軽めのものが多い。


そんな会社にとって使い勝手のいいコマがよく回れば、それは僕自身のためではなく会社のためになるだけのこと。
アルバイトには昇給も昇進も、そして臨時ボーナスなんて付与される仕組みがないからだ。


だから僕はそんな自分を終わりにするために塾講師を辞めた。
「会社のため」ではなく「自分のため」の選択をしたのだ。


そしてそれからやや時間を置いて、僕は近所の書店でアルバイトを始めた。

今度は家からも程近く、給料も最低賃金スレスレの温い職場を選んだ。
家から遠くて時給も高かった塾講師時代とは間逆とも言える場所だった。


だが、そこで僕は人間関係の構築に失敗した。
正確に言うならば、十数名いるスタッフのうちのたった1人とだけ反りが合わなかった。

入り始めの頃はよかったのだ。
はじめは誰もが優しく丁寧に業務内容をレクチャーしてくれて、サポートもしてくれた。いい職場だと思った。

僕と馬が合わないその人も、入社してすぐのときは失敗してもフォローしてくれたし、少し難しいと思ったところはコツも含めて教えてくれた。


だが仕事だろうと何だろうと、同じことを繰り返していれば「慣れ」が生まれる。
アルバイト業務は単純作業も多かったため、順調に業務内容を覚えていった。仕事を覚えるのが早いねと、何人かの社員から褒められもした。


そうして一通りの業務を覚えた頃、僕の配置先が決まった。
それこそが、僕が唯一苦手としている社員さんの下で働くというものだった。

その社員は、あまり深くは関わっていないがおそらくは完璧主義者で、自分の流儀というものを絶対に曲げたくない人物だった。
だから思い通りにならないとパソコンに当たるし、その人の元からは数分おきに舌打ちが聞こえていた。

接客業だというのにお客さんに対する態度も粗暴で投げやりで、他の社員さんも常にその人の機嫌伺いをしているきらいがあった。


そしてその苛立ちの矛先は、次第に僕にも向けられるようになった。
僕はできるだけその人の意向に背かないよう、相手の機嫌を損ねないよう、決して逆らわず余計なことはせず慎ましくアルバイトに勤しんだ。


「これをやれ」「分からなければ触るな」「私に聞くな」など、同じことを二度言わせないよう、全てその人に従った。
でもその人に怯える生活をしているうちに、僕はふと気付いた。「あれ、自分は一体何をやっているんだ?」と。


僕は自分の社畜体質を改善するために塾講師を辞めたくせして、今度はどうして別の人間の奴隷になっているんだ?と思った。


別に楽して稼ごうとも思っていないし、職場環境に完璧を求めてもいない。

だが、良禽択木という言葉だってあろう。
僕だって誰かの下につくならば、その人は尊敬できる人のほうがいいじゃないか。

それをなんだ。
たかが田舎の小さな書店の社員ごとき分際で、アルバイトを虐げるような井の中の蛙になんて僕は憧れもしないし敬いもしない。


そう思うとだんだんと苛立ってきた。
その社員の顔を思い起こすだけで、胃がムカムカして飯がまずくなった。

最悪だ。
あんなクソ人間のために、どうして自分がこんな目に遭わねばならんのだ。


だから辞めた。僕は逃げたのだ。
他の社員からは「キミが辞めるとこれからどうすれば...」と憂いを帯びた目で見られたが知ったことじゃない。

今ではさっさとその本屋の悪評が口コミで広がり、早々に店畳みすることを心より望んでいる。

 

だが、一昔前の僕だったら、きっとこう思っていただろう。
「自分がダメ人間だからあの人の機嫌を損ねてしまうんだ。もっと頑張んなきゃ」と。

この考えは非常に危うい。自殺する人間の典型的思考パターンである。


世の中には適材適所という言葉があろう。
その場所では地面のホコリ以下の価値だったものが、あっちの場所では重宝されることだってある。

採用試験で数社からことごとく断られると、さすがに精神的ダメージが大きくなることも予想される。
「自分は社会に必要とされていないのではないか」と思うこともあるだろう。

でもそれは断じて違う。
社会に必要とされていないのではなく、その会社に必要とされていないだけのこと。

日本には会社なんて掃いて棄てるほどたくさんあるのだ。
お祈り通知書でも来たら「フッ、あの会社め。俺を落とすとは惜しいことをしたな、バカめ」くらいに思っておけばいい。


自分に価値があるかどうかなんて、結局相手次第なのだから、当たりもあればはずれもある。
そして人生は大抵の場合、はずれという結末が待っているという、ただそれだけのことなのだ。