お金がほしい

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先に謝っておきます。ごめんなさい。

小ネタ大放出祭り その2

このブログにおいて、僕は基本的に嘘ばかり書いているので今更気にする方もいらっしゃらないと思うが、でも念のため今一度言っておく。

私は根っからの大嘘つきです。


はい。
というわけで、今回はあの伝説となった大人気企画が帰ってきました。ででんっ!

小ネタ大放出祭り その2を開催したいと思います!
はーい、とりあえず拍手っ。


まぁ第1回目のときにね、「第2弾はありません」とか堂々と書いていたような気もするけど、もうそんなのどうだっていいよね。

約束とか取り決めとか合意とか、そういう一切合財を無碍にするのがこのブログの味ってもんだよね。

 

ex-finprethe.hateblo.jp

って結局のところですね、またしょうもないゴミ記事がたまっているのでちょっとだけ排出させてくださいなと。
要するにそういうことです。

なのでご理解ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。


では早速。

  • 久しぶりに新聞を読んだ

みなさんは最近新聞を読んでいるだろうか。

よく学生のときとか、学校の先生が「新聞は毎日読んでおけ」と言っていたことを思い出すが、そういえば最近新聞を読む機会がグッと減った。
まぁそれは我が家が数年前より新聞を購読しなくなったことが一番の原因でもあるのだが、しかし世間一般でも新聞を読んでいる人口というのは年々減少しているような気がする。


それはひとえに「いちいち開くのが面倒臭い」とか「購読料がかかる」「資源回収がめんどう」といった新聞単独の問題だけでなく、「いや、ニュースならネットで見れるし」「テレビやラジオに比べても情報が古い」のような時代の趨勢も結果として表れている気がしてならない。

要するに、だんだん日本では新聞がオワコン化しているのだ。


しかし、そうは言っても新聞だってまだまだ現役である。

ネットにはフェイクニュースが氾濫する中で、新聞は裏の取れた正確な情報を客観的にプロの記者が書いていることから信用度が非常に高い。

それに、個人的にはテレビ欄がテレビ画面やスマホで見るより見やすいため、比較的見落としが少なくなり、新たな番組の発掘にも一役買ってくれる点が好印象。
「へぇ、いつの間にこんな面白そうな番組始まってたんだ」と気付くのは、いつも新聞のテレビ欄を見たときであった。


ということで、僕自身新聞に対してあまり悪い印象は抱いていない。
もちろん雑誌や本をはじめとした紙媒体のコンテンツは次第にペーパーレス化していく時代の流れの中で、新聞もこの先どうなってしまうのだろうかという不安はある。

ただ、少なくともあと十数年は新聞がこの世から消え去るという事態には至らないだろう。


地域特集欄で80代の夫婦がしょうもないことで口争いをおこなっている内容の新聞記事を読みながら、僕はなんとなくそう思った。

 

  • 結局電車やバスで座席は譲るべきか


僕は平生より電車とバスを利用しているので、よって毎日このシビアな問題に付きまとわれている。
なんて書くと少々大げさに捉えられてしまうかもしれないが、「席を譲るべきなのか否か」という、ただそれだけのことである。

ただ最近思うのは、この問題は僕個人だけの問題ではなく、日本人全体の問題ではないのかと。

つまり「僕は悪くない。そうさせている社会が悪い」という考えです。


というのも、きっと皆さんも「席を譲ったほうがいいかな」という経験くらい、一度や二度はあると思う。
そしてその度に「んーどうしようかな」という逡巡が付きまとうのではないだろうか。

普通だったら、きっと一般人ならば、誰の目も気にしなくてもいいとしたら「どうぞ、お座りください」と席を空け渡すに違いない。

僕だって小学生のときなんかはマセガキ気取りでよくお年寄りに席を譲ったりしていた。そういう時代もあった。


ただこうね、だんだんと年を重ねて世間の目が気になり始めるとアホなことに変な考えが浮かんでくるようになる。

あ、これは席を譲ったほうがいいパターンかな。
いやでもこの沈黙の中で「どうぞ」って言うのも小っ恥ずかしいし、それに「結構です」って断られたときの惨めさったら想像するだけでこの上ないし。

それに僕は別に優先席に座っているわけでもないし、この人も優先席前で立っているわけではないから別に座りたいわけではないのかもしれないし。

それからもし仮に「どうぞ」って席を譲ったとしても周りから「うわ、出たよ偽善者」とか思われるのもイヤだしなぁ。
マジでこんなところで悪目立ちなんてしたくねぇよ。

いや、ここは敢えて無言で立ち上がるのはどうか?

「べ、別に席を譲ろうと思って立ったわけじゃないし。次の駅で降りるから立っただけだし」みたいなツンデレ理由を盾にすれば、すごく自然に席を空けることができるじゃないか。

あ、いやでもきっと周りの人にはそんなのお見通しで、「出たよ偽善者。無言で立ち上がって席譲るのがカッコイイと思っているタイプのイタいヤツだわー」って思われてそうでイヤだなぁ。

ん?それなら・・・

みたいなね。
back numberの歌詞に出てくる主人公にありがちなウジウジを発揮してしまうのが僕を含めた大勢の人間だと思う。

そんなのには見向きもくれずにスマホゲームに明け暮れる人も、そりゃいっぱいいるけども。


ただ、この前僕は見てしまったのだ。

胸のところに「太極拳」ってデカデカと書いてあるTシャツを着た細マッチョのイケメン外国人男性が、杖をついたおばあさんに眩しいくらいの笑顔で席を譲っている現場を。


僕はそれを見た瞬間「あ、こりゃ敵わないわ」と即座に思った。
僕には到底できない芸当だと、いよいよ諦めがついた。


だからもう最近僕は、たとえどんなに電車の席が空いていても、絶対に座らずに立っていることにしている。

もう考えることはやめた。
悩むことも終わりにした。

立ってさえいれば、「どうしようかな」なんて思う必要もない。
誰かに何かを思われることもない。


というわけで、結局世間は悪くなかった。
僕が悪かったです。ごめんなさい。

 

  • 弱者と強者

たとえば「これはこうだ!」という意見を持っている人って、強いと思いません?

仮にそれが正解から大きく逸脱しているのだとしても、決して屈せず「こうに違いない!」と断言できる人って、正直すごいなぁと思う。
これは皮肉でもなんでもなくて、僕には絶対そんなことしないし、できないからだ。


世の中ってこんな感じで、特に我が国日本でははっきりとした意見を持っていたり声がデカかったりするとそれだけでリーダー格にまでのし上がることができる。
だからこれも一種の才能なのではないかと。


僕なんて他人指向型というか風見鶏のきらいがあるので、どうしても誰かが堂々たる意見を発言していた場合はその意見に便乗することもままある。

もちろん「いや、さすがにこれは違うだろ」というときもあったりはするが。


しかしながら自分の意見を盲信している人の意見というのはなぜだか妙に説得力があり、「言われてみればそういう風にも捉えられるなぁ」とか「そういう見方もあるよなぁ」なんていつの間にか流されてしまうことも多い。

そうしてふと気付いた時には、声が大きいだけの人とかやたらケチをつける人とか、そういう人の周りに自然と人が集まっているのである。
ただしそんな人の性格というのは、大抵の場合やや難があるのだけれども。

 


まぁ文面だけで何となくお気づきの人もいるかもしれないが、僕は友達が少ない
ただ自分では「性格が悪い」と思われている自覚がないし、嫌われる理由もあまりないのではと思っている。

あ、ちなみにこのブログでは毒ばっかり吐いているけど、実社会では僕は温厚キャラなんですよ。
いやマジでマジで。


ただ、「好き」と「嫌われない」という言葉の意味は似て非なるというか、本当は雲泥の差がある。
僕は誰かに嫌われることこそ少ないが、僕を好きになる人というのもまた少ない。

分かりやすく言えば、自分で言うのもなんだが僕は八方美人なのである。


だから、僕がどんなに相手を好きになったとしても、1人当たり12.5%くらいの「好き」しか与えることができない。
それゆえ僕に返ってくる「好き」も同程度のもので、それは他人からしたら大したことのない量なのだ。


しかし三方美人くらいの人ならば、敵は作るが1人当たりの「好き」度合いは僕に比べて圧倒的に多い。
つまり彼らは濃くて太い、切ろうとしてもそう易々とは千切れない縁で結ばれていることになる。


でもそれが僕には、どうしてもできないのだ。

いや、分かっているんだよ。
誰にでも優しいというのは誰にでも冷たいのと同義であり、誰も特別ではないということだと。

だから新しく友達もできないし、深い付き合いもできないし、今の交友関係も広がらない。


よく世間で言われるのが、「信頼できる友達を1人つくりなさい」という文言である。
富士山に登って100人でお弁当を食べるのもいいが、それ以上に何でも相談できる友達を1人持つことのほうが有益であると。


そんなことは、随分と前から重々承知している。
そして、そう在りたいとも思っている。


ただ、どうにも僕にはそれができないらしい。
処世術を知りながらにして、それが実行できないというのもまた、人間の愚かさであり不便さなのだろうと思う。

 

まぁ結局何が言いたいかというと、寂しいんですねきっと。

というわけで誰か僕に構ってくださいお願いします。
あ、ついでにネタもくださいお願いします。