お金がほしい

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2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

ガキ使の黒塗りメイク問題から見えた日本の課題

ブログというコンテンツが、そしてその立ち位置が「書き手が書きたいことを書きたいように書くための場所」としてあるのならば、だったら言わせていただく。

www.huffingtonpost.jp

この問題。
日本人にとっては「いや、知らねぇよ」という話だろう。

現に僕はガキ使の年末スペシャルを生で見ていたが、まさかここまでの騒動になるとは予想だにしなかった。
そもそもの問題意識が、僕という人間に、そして日本人には存在しなかったからだ。


だが実際どうだろう。
これに関連するネットニュースはここ最近毎日取り上げられ、そしてその度にコメント欄には「何が問題なのか分からない」「差別しているという人のほうが差別しているでしょ」という声が大半。

ごもっとも。大正解。
商品としてヤフージャパンの株をあげてもいいと思う。


ただ、僕は思ってしまうのだ。
「あぁ、こりゃ日本人ならではの問題だなぁ」と。


実際、僕はダウンタウンの浜田さんが黒塗りメイクで出てきたとき、たちまち大笑いしたと同時に「これって大丈夫なのかなぁ」と少し思った。

というのも、僕は年末のガキ使が楽しみすぎて12月上旬辺りから暇を見つけてはYouTubeで動画を漁っていたのだが、これが驚くべきことに海外でもこのシリーズは大人気らしい。

特にアメリカなんかではファンも多いらしく、「TEAM GAKI」というファンサイトまであるほど。

www.teamgaki.com

ここではガキ使の動画に英語の字幕が付けられ、そしてそれが閲覧できるようになっている。
つまり、そこでは多くの外国人がガキ使の動画を観ているということである。


そしていつだったか忘れたが、このサイトから流用したガキ使の英語字幕動画をYouTubeで観たときのこと。

メンバーか、それとも仕掛け人かすらも忘れてしまったが、このシリーズでかつて誰かが黒人に扮して笑いを取っていた動画で、こういった内容のコメントを発見した。

 

私は黒人だが、この動画では黒人に扮した人が笑われている。非常に不愉快だ。

 

 

このコメントは英語で書かれてあったし、それにいくらか昔のことなので完全には覚えていないが、しかしこのような内容の書きこみがあったことは確か。

そしてそのコメントには何件かの返信があり、「日本では黒人を差別するという文化がそもそもない」とか「これは黒人を笑っているのじゃなくて、日本の有名人がまったくの別人になっているのを面白がっているだけだよ」といった番組側を擁護するものがこれまた英語で書かれてあった。


ただ、僕はそこで「あぁ、黒人にはそう映っているんだな」と初めて自覚した。と同時に悲しい気分になった。

せっかく日本のお笑いが海外でも人気を博しているというのに、それを観た海外の人が不快に思ってしまったのはなぜだかとても残念な気になった。

 

だから今回の年末スペシャルでも黒塗りメイクが登場したとき、僕は笑いながらも「あ、そういえばあのコメントを書いた黒人の人は今回不快に思わないだろうか」とふと考えてしまった。


僕、というか日本人はおそらく、浜田さんが黒人メイクをしたその変わり様に笑ったと思う。
だって浜田さんめちゃくちゃ面白かったし、しかも妙にしっくりきているのもまたツボだったし。


ただ、僕の考えではこれはあまり言い訳にならないと思う。

だって最近の風潮ってそうじゃないですか。
「いじめた側は悪気がなくても、いじめられた側がそう感じればいじめが成立する」っていう考えにみんな納得しているし、セクハラで訴える権限は、いつだって言われた側にしかない。


いくら僕ら日本人が「いやいや差別なんてするわけねぇだろ」って叫んだとしても、そしてそれが本当に本当なのだとしても、実際そういう風に捉えられてしまったのならば仕方がないでしょ。
あとはそれを海外の人が今後どう受け止めてゆくのか、それだけの問題である。

 


でも、今回の問題は個人的に日本が今後国際化を目指す上で必要なことでもあると感じた。

きっとこの件が問題にならなければ誰もこれを問題として認識すらしなかったろうし、そして世界ではいまだ黒人に対する差別的感情があることや黒人が差別し続けられたことに対する卑屈癖が抜けていないことも知りえなかっただろう。

 

忘れていけないのが、日本はもうじき東京オリンピックを開催する国であるということ。
無条件で世界中の人が押し寄せる現状がすぐ間近に迫っているというのに、「知らなかった」「分からなかった」では済まされないこともあろう。


例えば日本国内において友人に「ヒンドゥー教の人たちって牛肉食べないとかマジかわいそうじゃない?」と言うのは、単なる日常会話に過ぎない。

しかしそれを偶然耳にしてしまったヒンドゥー教の敬虔な信者は、もしかしたら宗教的差別だと感じるかもしれない。


そんなのは本当に、やっぱり分からないのだ。
だから個人的には、分からないことを自覚し認めて、そして今からでも知る努力をすべきだと思う。

 

上述したように、彼らが来日しても宗教的な理由でどんな食事を摂るべきか分からない人もいるだろう。
ハラールもハラームも、まだまだ知らない日本人が多い。
言うまでもなく、それは食に携わる人も含めて、だ。

このままいってしまえば、メッカの方角を向いておこなうサラートを見た日本人が面白がってその人たちの動画を撮影するような事態にも発展しかねない。

これは完全なる侮蔑行為だ。おぞましく浅ましい無知。

でもそれは結局「これがそんなに無礼な行為だとは知らなかった」という一点のみに帰結する。

僕はいつもブログにテキトーなことばかり書いているけども、ちゃんとそういった危惧は常日頃感じる一般性だって有している。

「日本人最高!」「おもてなし最高!」と耳に心地よいテレビ番組ばかり流すのもいいのかもしれないが、もっと他に日本人が知るべき点は沢山あると思うのだ。

 


ただ、このように問題は山積しているとはいえ先ず僕ら日本人が変革をすべきポイントは「心の問題」であると感じる。


日本人は、もちろん例外もあるが外国人観光客に話しかけられると、「ソーリーソーリーノーイングリッシュ」と言いながら逃げてゆく。

もしかしたらきちんと向き合うことで応対できたかもしれないところを、その可能性すら放棄して走り去るのが残念ながら日本の現状だ。


だからまずは、この精神的鎖国とでもいうべき状況をなんとかするのが先決であると、そう今回の騒動を通じて感じた。