千と千尋とドラえもん
今日は金曜日!ということで夜7時からはドラえもんだ!
なんて時代はとっくの昔に過ぎ去り、しずかちゃんの入浴シーンなんかで興奮することもなくなった。
いや、昔からそんなにしてなかったけど。いやマジでマジで。
というわけで今日はタイトルにもある通り国民的アニメについて書いていこうと思う。
だが初手として断っておかねばならないのは、僕がめちゃくちゃアニメ好きではないということだろうか。
そう、僕ときたらついこの間まで「君の名は。」を大ヒットさせた新海誠監督をシンカイセイだと思っていたし、何だったら「君の名は。」の英語表記は「What's Your Name」だと勘違いしていたレベル。
正式にはYour Name.ですって。いや、別に前前全然気にしてないし。なんでもないや。
おっと、また話がそれてしまった。今日はドラえもんについて語りたいんだった。ちくしょう。
しかしマジでこうやってすぐに話が飛んでいってしまう癖を直したい。
ドラえもん、何か出してくれよ。あ、お金でいいからさ。
まぁ、それでこのドラえもん。
今でこそアメリカで放映されているジャパンアニメーションの象徴だが、そうなったのはようやく数年前のこと。2014年だったかな。
他のアニメは早々に翻訳バージョンが放映されているのに、ではどうしてドラえもんだけ30年近くもアメリカ進出が遅れたのか。
んなもんは各々ネットで調べてくれればいいのだが、まぁ言ってしまえば要するに日本とアメリカの価値観の違いである。
または、教育方針の違いといってもいい。
なんて抽象的に言ってもピンと来ないと思うので、とりあえず皆さん、一旦のび太くんを想像してほしい。
主人公の野比のび太くんですよ。はーい、できましたか?
では、一体どんなのび太くんが浮かびましたかね?
そこの君は?ほう、腕と足を組んで昼寝するのび太くんと。
そこのあなた。なるほど。ドラえもんに泣いて道具をせびるのび太くんか。
そっちの人は?あぁ、あのほのぼのシーンで目がカタカナの「ハ」の字になっているのび太くんね。
どうです?
まるっきり主人公感がねぇ!
こうは思いません?
主人公って言ったらもっとこう、愛だの勇気だの友情だの、それこそ少年ジャンプに象徴されるような確かな信念を胸に突き進んでいくものだろうと。
ときに本気でぶつかって、お互いに傷つけあいながら、それでも少しずつ成長していくのが主人公格というものではないのかね?と。
ステレオタイプではあるが、日本でも一般的にこう考えるのが普通だと思う。だって主人公だもの。みつを
主人公とはやはり子供のヒーロー的立ち位置にある。だからその存在は「見習うべき人物」あるいは「尊敬に値する人格」でなければならない。
アメリカでは特にそういった考えが根強かった。
しかもアメリカにおいて子供向け番組では日本なんかよりも遥かに線引きがきちんとされていて、教育上よろしくないと判断されたものはテレビ局が必ず何かしらの策を講じる上に、親も徹底的にその番組を見させないというのが主流。
模範的でない主人公を子供が真似しては教育上マズいと、その番組はチャンネルを回されることがなく、つまり放映していても誰も見ない。
さて、このことを踏まえて今一度のび太くんを考えてみよう。
自部屋での昼寝を何よりも好み、困ったときは自力での脱出を試みる前にドラえもんに助けを請う圧倒的他人依存型人間で、宿題はやらず出木杉くんを頼り、しずかちゃんに「のび太さんのエッチ」と罵られて興奮するような変態。
一体誰が彼を尊敬するだろうか。
いや、もちろん彼だって映画館の中ではめちゃくちゃ活躍するよ?
でもさ、映画館の中だけジャイアンがめちゃくちゃイイ奴になるのも「どうせ映画だけ」って単なる一過性のものだからさ。
あんまり意味がないよね。
それ以外にも、しずかちゃんの入浴シーンにおける性描写、のびママの感情的且つ無慈悲な叱責、ジャイアンの理不尽な暴力など、少々穿った見方をすればいくらでも教育上よろしくない点というのは出てきてしまう。
んなもん問題のうちに入らねぇだろって思っちゃうけど、揚げ足なんていくらでも取ることはできる。
最近もあった。女子生徒のうなじが男子生徒の欲情を煽るからポニーテール禁止って。
絶対それ決定したPTAの中に変態が潜んでいますよ。マジで注意したほうがいい。
そして話は戻るが特に最後の「ジャイアンの暴力」についてなのだが、意外にもアメリカにおいてここが非常に重要なポイントなのである。
というのも、アメリカは「正義が勝ち悪が滅ぼされる」というコテコテなテンプレストーリーが大好物。
いや、むしろそれ以外の展開などあってはならない。
アメリカ発の映画を見ればすぐに分かる。ラストシーンのヒーローの笑顔と来たらまぁ爽やか。
それなのに(一応悪役ポジションである)ジャイアンはそこまで痛い目を見ることもなく(たまにあるが)依然としてのび太の上に君臨し続けている。これはアメリカにおいて広く受け入れがたい設定なのだ。
また、この現状にのび太が甘んじているという点もまた問題。
さて、ここでようやく「千と千尋の神隠し」の出番だが、この超有名ジブリ映画。
実はあまり知られていないのだがアメリカ版の映画ではラストシーンに日本版では無かった「とあるセリフ」が追加されている。
それはトンネルを抜けたあと、千尋が振り返ってじっとトンネルを見つめるシーン。
荻野夫婦が車の上に溜まった草やら木の枝やらを手で払い終えて車に乗り込みながら、日本版では無いことを言い始める。
父「どうした、怖いのかい?」
母「怖がらなくても大丈夫よ。全てうまくいくわ」
完全意訳で申し訳ないのだが、日本版ならば誰も口を開かず車を走らせるところ、英語版ではこういったやり取りが追加されているのだ。
ではどうして原版を改変してまでこのセリフをねじ込まなくてはならなかったのか。
答えは簡単で、それこそがアメリカ流だからである。
この映画で、千尋は目に見えた成長をしていない。
もちろん映画内では勇気を振り絞って相手に立ち向かってゆく様が描かれているが、トンネルのシーンを見れば明らかだろう。
最初のシーンと、最後のシーンが何にも変わっていないのだ。
これはあくまで僕の推測だが、この映画は千尋の「夢」としての役割が強いのだと思う。
行きのトンネルで千尋は母親の腕にしがみつき、帰りもまた、千尋は母親の腕に強くしがみついている。
夢の中の出来事なのだから、成長もクソもないということだ。
だがこの考えはアメリカ的にあってはならない。
つまり
「どうして!?千尋はあんなに劇中色々な困難に打ち勝って成長したはずなのに、どうして帰りのトンネルも怯えているの?」
アメリカ的発想ではこうなる。
だからラストにこのセリフを入れなければならなかったのだ。
成長とまでは行かなくとも、少なくともそれまで引越しに後ろ向きだった千尋が新しい生活に向かってゆくという描写をセリフという形で挿入せざるを得なかったのだ。
つまり、ここまで「主人公の成長」というファクターを重要視するアメリカにおいてのび太くんは主人公として失格だったというわけ。
しかし近年、アメリカも様々な国の文化に触れることでその絶対的な価値観が揺らいだ、というよりは多様化して、結果として遅ればせながらようやくのび太くんのような性格の主人公もテレビで放映できるレベルには受容されるようになったと。
そういうことではないでしょうか。
まぁ僕自身アメリカ版ドラえもんを見たことがないので、もしかしたらそっちではめちゃくちゃ自立したのび太くんの姿が拝めてしまうのかもしれないが。