お金がほしい

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先に謝っておきます。ごめんなさい。

日本人らしさについて本気出して考えてみた

前回に続きタイトルの流用。
こういうのって最近厳しいらしいからちょっと怖い。

ご存知の方も多いと思うがポルノグラフィティの「幸せについて本気出して考えてみた」から借用させていただいた。

ちなみに今日の記事ではこれ以降一切ポルノグラフィティについて触れないのでポルノファンの方はお帰りください。本当にごめんなさい。

 


さて、早速だが日本人らしさについて。今回は珍しく真面目。だから多分相当つまらない。

「日本人らしさ」読んだことは一度も無いがこのテーマについての本はきっと腐るほどあると思う。

だから完全オリジナル。盗作容疑はかけないでやってください。

では早速質問。
例えばあなたが棚からコップを取り出そうとしてそれが落ちて割れてしまったとしよう。さて、そのときどんな言葉が口を突いて出てくるだろうか。


ちなみに僕ならばこう言う。

「フッ...どうやらコップも重力にだけは逆らえなかったらしいな」

嘘です。ごめんなさい。あ、ちょっと待って引かないで。


まぁ、大抵の人は「やっべぇ、コップ割っちゃった!」とか「やっちまったぁぁ!」と思わず頭を抱えることだろう。いや知らないけど。

つまり英語で言うと「I broke the cup(私は(が)コップを割った)」
そしてスペイン語で言うと「Rompí el vaso」となる。

どうしてここでスペイン語をぶっこんだのかはできれば訊かないでいただきたい。

だが上の表現、日本以外の国では実際問題ほとんど使用しない。
きっとこの文に違和感を持った人も少なからずいたはずだ。

その代わりに使われるのが「The cup was broken」
直訳すると「コップが割れた」といった感じである。

もちろん日本人も普通に使う表現だ。
むしろ「コップを割った」と同じくらい多く用いられているように思う。

だが想像してほしい。
あなたは今実家にいて、棚からコップを出そうとしたら親のコップが期せずして床に落ちて割れてしまった。
絶望に打ちひしがれたあなたは、そんなとき母親に何と言うだろうか。
そう。

「ごめんなさい。コップを割ってしまいました」

これしかない。これ以外の選択肢は考えられない。
仮に「コップが割れちゃった」と言ったとしても「どうせあんたがどん臭いせいで割れちゃったんでしょ」と一蹴されておしまいである。
それが目に見えているからこそ、申し訳なさそうに謝れば許してもらえるだろうと考えを改めて「私が割ってしまった」と頭を垂れるのだ。

だが海外ではそんな言い方は絶対にしない。
絶対というのは言い過ぎた。訂正しよう。もしかしたらするかもしれない。

アメリカ人だって全員が全員挨拶がてらハグやキスをするわけではないし、イタリア人の男性も全員女たらしであるはずがない。

だがベーシックな表現として「The cup was broken」というスタンスを取ることが多いのは事実だ。

コップが割れた、という事実の主体性について、あくまで自分ではなくコップにあると主張している。

つまり極端に言ってしまえば「俺は悪くない。落ちたコップが悪い」ということである。ちょっと極端すぎたかも。

当然日本人だってわざとコップを割るわけではない。
わざとの場合ならば、例えばむしゃくしゃしてコップを地面に叩きつけて割ったのならば外国人も「I broke the cup」と言うはずである。

ちょっと手が滑ってしまった。持ち上げたときに別のコップに偶然当たってしまった。ちょっと強く握りすぎた。
こういった故意ではない事象に関しても日本人は「コップを割ってしまった」と言う場合が多分にある。

これは意外にも外国人に結構驚かれるらしい。

中学や高校で「先輩」「後輩」の関係があり、上級生には敬語を使うのが一般的であるという事実にも海外は驚愕しているが、やはり欧米化してきたとはいえそういった地味な違いが未だに根付いているのが現状だ。

と言うと何だか悪いことのように捉えられてしまうかもしれないが、これこそが日本人らしさの根幹ではないかと思う。

「責任」「義務」「罰則」
この三つの言葉の意味が、海外ではまったく異なるものであるのに対して日本では随分と曖昧だ。

ちなみに責任を英語に直訳すると「Responsibility」
レスポンスという言葉は聞いたことがある人も大勢いると思うが、日本語に直せば「反応、呼応」が妥当なところだろう。
つまり、英語における「責任」を意訳すると「ある行為に対してついて回るもの」といった具合であろうか。
似たような言葉に「Accountability」というものもあるがこれ(account)は「勘定、精算」という意味になるので「(過去にした)ことやものについての落とし前」と考えてよさそうだ。

だが日本では、状況は違えど「責任を取る」というのはその人について回る「責任」であり社会的な「義務」でありある種の「罰」だ。

だからそれがとてつもなく重い。本来の「責任」という意味に更に二重の重みが加わっているのだ。重すぎる。

そういうわけで「責任の所在」について日本人は気持ち悪いくらい敏感。だって昔から「責任」=「切腹」とか怖すぎる。
切腹って腹を切ればそれですぐに死ねるわけでは無くて、運が悪ければ一週間くらい悶え苦しまなくちゃいけない。そんなの絶対イヤ。

そしてこの間こんな記事を書いたが

ex-finprethe.hateblo.jp

この「何でもいい」という言葉に見られる「曖昧さ」も日本人らしさであると思う。
その起源は詳しく知らないが、やっぱり普通に生きていてたまに思うのは「絶対に責任なんて取りたくねぇ~!」と切に願っていること。

それは当然多くの人間が思っているはずなので、そこで満を持して「曖昧」さんにご登場いただくわけです。

日本の会社って本当によくできている。ニュースなんかで事件自体はたくさん取り上げられるのにその責任がどこにあるのかという議論になると途端に議論が紛糾する。
それで結局社長が「申し訳ございませんでした」と言いながら全国ネットでハゲ頭を放映されたところで辞任して一件落着。

海外はもうちょい個人管理なのに対して日本は部署管理だからこういうことになる。
でもそれが日本という社会ではある種正解なのだとも思えてしまうのだ。

だから上に述べたような、ちょっと海外と違う考え方が定着しているのではなかろうか。
これがコップの話と一本の線で繋がるわけではないが、ひいてはそれが日本人らしさに結びついているのではないかと、そう考えた。


あ、いいですか、僕が考えただけですから。
これが合っているわけではありませんよ。所々論理が破綻していますから、さらっと受け流してください。

それではさようなら。