お金がほしい

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2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

映画『ロケットマン』はミュージカルなのかという疑問

映画を観て、うろ覚えながらも、ふとこんな話を思い出した。

エルトンとバーニーは、とある部屋にいた。そこに初対面のプロデューサーが到着し、彼らの楽曲について様々に褒め讃えたあと、
「君の声は素晴らしいよ」
エンジニアはそう言って、バーニーに向けて握手を求めたのだった。

(追記:ガス・ダッジョンというプロデューサーのことです。)


どこかのテレビ番組から得た知識なのだが、いかんせん記憶力に乏しいのでかなり間違っているかもしれない。
だが、エルトンとバーニーを並べたとき、プロデューサーは迷うことなくバーニーをミュージシャンと思い込んだ。

つまり、それほどにエルトンはあまりにも普通すぎた。
天才と言われた一人の男も、もとはただのありふれた男に過ぎなかった。

フレディマーキュリーもプリンスもデヴィッドボウイもマイケルジャクソンも、スターと呼ばれる人間は等しくみな孤独だったという。
誰も手が届かないほど遠い場所にあり、輝いているから「スター」と呼ばれるのだろうが、星と星の距離は果てしなく遠い。そんな含意もあるのだろうか、なんて考えた。


しかし孤独とは、得てして周りに誰かがいるときに使われる言葉である。
フレディにはジムやメアリーが、そしてエルトンにはバーニーがいた。

そんな僕ら凡人のような幸せを、この映画を通じて見ることができた。

 

映画の感想にうつる。

率直に感想を述べるならば、とても良かった。
久しぶりに時間を忘れて見入った作品だったし、最初の5分の流れは僕の映画史上もっとも意味が分からなかったし、タロンエガートンは歌がうまかったし。

まさかクロコダイル・ロックを聴いて涙腺が緩む日が来ようとは夢にも思わなかった。

正直なところそこまで熱烈なEJのファンというわけではなかったので、エルトン・ジョンが芸名であったことや、ステージ上でド派手な衣装を纏っていた理由なんかについても知ることができた。
なぜタイトルが「ロケットマン」だったのかも分かったし、そういう意味でも実り多い時間であった。

当初、これは「ミュージカル映画」と聞いていたのだが、はたしてこれはミュージカル映画なのか。観終わった後で疑問に思った。
というのも、この映画ではエルトン・ジョンの20を越える楽曲が歌詞を変えることなく登場し、シーンに応じて効果的に使われていたからだ。

もちろん、心情を音楽に乗せて歌い上げる映画は、紛うことなくミュージカルである。
けれども、映画の製作にあわせて歌が作られるのと、歌ありきで映画が作られるのとではまるで違うような気がするのだ。


これはあくまで個人的意見というか推論に過ぎないのだけど、この映画を製作する当初、ミュージカル映画にするという方向性は存在しなかったのではないだろうか。

もし僕が誰かの人生を映画にするならば、間違いなく「ボヘミアンラプソディ」のようにひとりの人間を追求し、ドキュメンタリーや再現ドラマのような形式で進めただろう。


だがこの映画のばあい、曲があまりにエルトンの過去と重なりすぎて、ひとつひとつのシーンとリンクしすぎて、心情を曲に乗せて歌うミュージカルが採用されたのではないだろうか。
そのくらい1曲1曲が彼の内省的で孤独な心境を表現していたし、もしエルトン・ジョンの曲を聴いたことのない人がこの映画を観たら、映画のために書き下ろされた曲と思うに違いない。

エルトンは、バーニーの詩が最もイマジネーションが湧くと述べている。
また、エルトンとバーニーは50年以上喧嘩をしたことがない仲だというが、それはつまりそういうことなのでしょう。


そしてなにより、劇中歌のメロディがなんと素晴らしいことか。
エルトン・ジョンの曲は、表現は悪いが引っ掛かりがないというか耳馴染みの良さが傑出しており、主役のようで引き立て役にもなれるという万能感たるや。

正式なアナウンスはまだだが、来年の春頃にファイナルツアーで来日公演をおこなう予定なので、その際はぜひもなくチケットを取って生の音を体感したいと強く思う。

 

さて、最後にこの映画がヒットするかどうかについてだが、「ヒット」という言葉がどこからどこまでを指すのか、ファジーすぎて難しいところである。
が、ひとつ分かったことがある。

帰り際、映画館の出口直前でおじさん2人組が「大人の映画だったな。ま、リピートはしないけど」と語らっていた。僕も全くの同意見である。
この映画は伏線もないし特別ゲストがカメオ出演しているわけでもないし、最後に大感動の幕切れがあるわけでもない。

だが、一見の価値はある。
というか、「Your Song」しかしらなくても楽しめるし、なんだったらエルトン・ジョンを知らなくても十分に楽しめる。

伝記の良いところとミュージカルの良いところがマッチした傑作であるので、是非一度ご覧いただきたいと思う。
ついでに感想をコメントでいただけると嬉しい。そんな、他の人の意見がとても気になる映画であった。

ハイレゾのストリーミングサービスは日本で浸透するのか問題

強いて言うならば、「ロイヤルホストサイゼリヤ、どっちにする?」というおはなしに近しいかもしれない。
あるいは、100均で買った什器と、ニトリで購入したお皿との違い、と表現してもよいのかもしれない。

このあたりはあくまで推測であり、主観であり、偏見でもある。
なので、そういう価値観を持っている方もいらっしゃるのね、フフンッ。と鼻から息を漏らしていただければ幸甚至極。


何を言っているのかわからないですね。一番分かっていないのは僕です。
しかし「分からない」というところにこそこの問題の本質があると思っていて、まぁ要は「ハイレゾのストリーミングサービスってどうなのかな?」という題について今回述べてゆきたい。


ハイレゾというのは平たく言うと音質の良さを売りにした音源のことで、ヘッドフォンやイヤホン等にいくらか金銭を投入した経験がある方ならもちろん、そうでなくても何となく聞いたことがある単語ではないだろうか。
そんな「かなりいい音」が、「それなりにいい音」のSpotifyとかApple Musicのようなストリーミングサービスと競合してサバイブできるのでしょうか。そういう話。

文頭に記した脈絡のない世迷言の真意は、これで皆々に届いただろうか。


ちなみに今回の記事で、僕は24bitとか192kHzだとかFLACだとかDSDだとかを使うつもりは毛頭ありません。
あくまで恣意的で定性的な側面ばかりを突いていきたいと思うので、理系の方はいじめないでください。かくいう僕も理系なんだけど。

 

さて、本題に入る前に僕がこの記事に着手しようと思ったきっかけ、というか端緒はこのニュースである。

www.itmedia.co.jp

読んだ。へぇと思った。
AmazonといえばGAFAのひとり。ちがうな、一員。いや、一翼?

そしてご存知の通りAmazon Music Unlimitedとかいう厨二心をくすぐるネーミングで、現在までもストリーミングサービスを展開している。

そんな天下のAmazonさんが、今夏ハイレゾのストリーミングサービスを開始すると言いはじめたのだ。
なんという唐突なニュースだろうか。

そして僕は、かなりの驚きをもってこのニュースを受け止めた。
というのも、ハイレゾのストリーミングサービスは、日本で、否、世界でもかなりニッチで採算が合わないビジネスであるという認識を抱いていたからである。

ご存知の方も多いかもしれないが、実はこれまでに日本ではいくつものハイレゾ配信サービスが誕生しては、瞬く間にその一生を閉じるという繰り返しが起きていた。

およそ僕の知る限りでも、クリプトンのHQM Storeやグルーヴァーズジャパンのgrooversは今年6月に、JVCネットワークスのVICTOR STUDIO HD-Music.などなど。
どれも決して小さくない会社である。そんな強肩揃いの兵たちが立て続けにサービス終了したとあっては、そんな市場に新規参入などリスクが高すぎてそう易々とチャレンジできるものではないだろう。

いや、小さくない会社というのは当たり前である。
音源を扱うため利権関係に強みがあるのは必須。また、ハイレゾ音源は1曲あたりの容量が大きいため、それを快適に配信するための格納庫がほしい。零細にそんなシーズはないのでしょう。

ちなみに現在残っているのは、SONYのmoraやe-onkyo musicやOTOTOYなど。その他にもあるが、数えるほどしか存在しない。

moraは今年秋からmora quolitasというハイレゾストリーミングを開始予定だが、もともと今年春に開始する予定が延期されたことからも、ハイレゾストリーミングの難しさが窺い知れる。

mora-qualitas.com

考えてみれば、だからこそのAmazonなのかもしれない。

Amazonの強みは、端から膨大な顧客データがあり、新規サービスとて改めて会員登録をする必要がないこと。
さらには、すでにストリーミングサービスを展開していることから、宣伝のしようによってはUnimitedの顧客を横流しできる可能性があること。

まだまだあるだろうが、パッと思いつくだけでも参入障壁が上述した他社よりも低かったことは明らかである。

それから、これはあくまで個人的な意見だが、Amazon Music Unlimitedは正直使いたいと思わない。
実際、競合の中でもLINE MUSICやSpotifyなんかよりも利用客数が少ないんじゃないのかな。Amazon Prime Musicは別として。

それはアプリの作り手本位のユーザビリティもそうなんだけど、邦楽の曲数的な意味での評判があまり芳しくない。
僕は洋楽メインなのであまり気にはならないのだが、国内のサービスとして国内の楽曲が少ないのは致命的だとも思う。

そんな現況を打破するための一案として、ハイレゾ音源ストリーミングは大きな突破口になる気がしないでもない。

また、来年にはオリンピックがある。
ちょうど有機ELや4Kのテレビに買いかえる人が続出するこの時期に「音質の良さ」を前面に出したサービスを開始するのは、かなりタイムリーで効果があるのではないか。

考えすぎかもしれないが、このサービスにより「画質の次は音質だ!」とネットワーク機能付ホームシアターやら高級ヘッドフォンやらが売れるかもしれない。
言わずもがな、Amazonで。

 

そうやって屁理屈と理想論と希望的観測を並べても、どうしたって気になる点がある。「なぜハイレゾ音源?」という点だ。

Amazonはトレンドの嗅覚がすさまじいというか、むしろAmazonがトレンドを形成していると評しても過言ではない。
電子書籍Kindleが一般的だし、スマートスピーカーといえば今やAlexaで、ネットで映画見るならPrime Videoでしょ、と。

そんな時代のリーディングカンパニーことAmazonが、今度はハイレゾの普及を虎視眈々と狙っている。いや、実際はもっと別のところに目的があって、あくまで起爆剤に過ぎないのかもしれない。

だが、Amazonはいつだって本気である。
先日よりAmazonはAudibleというオーディオブックを売り出し始めたが、そのお金のかけ方が尋常じゃない。

ハイレゾにいくら投じているのかは知らないが、天下のAmazonが鉛筆転がしのような博打に走るとは思えないのである。


であれば、少なくともAmazonから見て「ハイレゾは次に来る!」と見越しての戦略だろう。
たしかに僕はここ数年でハイレゾにハマった身だし、身の回りでも「350円のハイレゾ音源買ってみたー!」という人や、今年も東京で開催されたOTOTENの入場者数が増えているという話も聞く。

そのため、Amazonが参入するには打ってつけのタイミングであることは疑いようがない。

 

  • でも個人的には否定的な立場

しかし僕個人の見立てでは、ハイレゾが流行るとはとても思えないのである。
理由は簡単で、お金がかかるからである。

僕はハイレゾ音源を聞くために昨年なけなしの貯金を崩してアンプとスピーカー等に20万円ほど費やし、理想のオーディオ環境を手に入れた。
だがこの金額はかなり安いほうで、本気でオーディオを組もうとすれば「学問のすゝめ」が100冊あっても足りないだろう。

もちろんヘッドフォンであればそこまで金銭をかけることなく、快適なミュージックライフが送れるかもしれない。
しかし1曲あたりの容量がかなり大きいハイレゾを恒常的に聴く行為は、快適なWi-Fi環境と膨大なストレージ容量を兼ね備えたときのみ有効で、おそらく適用される「初月30日間無料」から後も継続する人の割合は果たして如何様なのか。

また、常にヘッドフォンやハイレゾ対応のオーディオ環境で聴くならまだしも、スマホのスピーカーでハイレゾ音源を流したところで、もはやYouTubeの音源と何ら変わらない。
仮にちゃんとした設備を整えたところで、相当に耳の肥えた人でなければ楽しめないことも多いだろうし、なによりストリーミングとは「いつでもどこでも」音楽を聴けることが売りであるはずだが、それがハイレゾでは破綻しかねない。

そして極めつきは月々2000円という金額。
たしかに、ハイレゾ音源を購入しようとすれば1曲350円ほどするので、単純計算で6曲聴けば元が取れる。

だが、そこに価値を見出す人がどれくらいいるのか。
これは100人中80人以上が~みたいな話ではなく、100人中1人が興味を持って、そのうえで課金をしてくれるか、という話。


いずれにせよ、もし無料期間があるならばぜひとも使ってみたいし、そこで価値があると判断すれば課金することも吝かではない。
なにより、僕は数年前ハイレゾ音源に感動してからどっぷり沼にはまっているタイプの人間なので、基本的にハイレゾの社会的浸透はウェルカムなのだ。


だからこそ、世間的にハイレゾ音源がちゃんと普及してくれるのかが心配でならない。
いずれにせよAmazonという大きな企業がこの業界に足を踏み入れた結果、どのような結末になるのかはとても興味深いので、最後まで見届けたいと思う次第である。

地方学生が就職活動を終えて思うこと

米粒ほど小さな、ひどく個人的な話ではあるのだが、先日就職活動をようやく終えたのでここに報告しておく。
まぁ、このブログで通告もしていなければ開始時に宣言もしていなかったので、皆さんにとっては本当に「あぁ、そうですか」程度のお話でしょうが。

ともあれ、進路として就職を選んだ大学4年生の通過儀礼終結したということで、なんだ、その、おめでたい話じゃないですか。
僕としては「ま、ここでいいかな」と、40%の妥協と20%の納得、40%のモヤモヤを残したまま終わりを迎えたのであるが、親類からは「本当におめでとう」とか「苦労が報われて良かったね」などと、さもノーベル賞を受賞したかのような褒辞と労いの言葉を受け、絶賛混乱中。

でも、そのくらい就職活動というのは大きな変化を伴う、人生における重要なイベントのひとつだということだろう。
そしてお気づきのとおり、僕はまたそんなターニングポイントを適当な心持で迎えてしまった。人生とはいつだって後悔の繰り返しである。

 

しかし、就職活動中は色々な出来事があった。
ブログに認めるほどの内容ではない気もしたのだが、チリツモという名ゼリフもあることなので記憶から吹き飛んでしまう前に書き記しておこう。


僕は静岡県民ということで、基本的には静岡に本社のある企業はもちろんのこと、それ以外にも東京やら名古屋やらと繰り出していった。

静岡に事業拠点があっても本社だけは東京都港区に置きたい企業が意外とたくさんあるらしく、説明会やら面接は東京または大阪のみの開催と見栄を張っていたのがなんとも微笑ましい。
その見栄のせいで交通費を搾取され続けた日々。僕のバイト代3か月分は一瞬にして泡沫と化しました。ぜんぜん微笑ましくない。笑えない。


そう。地方学生にとって、就職活動とは試練なのである。
往復で新幹線を使えば1万5千円。PS4の新品ソフトを2つ買ってもお釣りがくる金額を、たった数時間、あるいは数十分のために費やす日々。

節約しようと高速バスを利用すれば、片道5時間。
おまけに道路は混雑が読めないので、時計と渋滞情報をひたすら交互に見る日々。2ヶ月経ったころには肝を冷やしすぎてポン酢ともみじおろしをかけたくなるレベル。


エントランスをくぐると、採用担当の女性が出迎えてくれる。
どうして東京の採用担当者ってみんな美人なんでしょうね。アナウンサーなの?


その方に名前と出身大学を告げると、どの会社でも例外なくこう返される。

「え、今日は静岡から来てくれたの~!?朝早かったでしょ、大変ですね~!」

最初の頃は嬉しかったが、同じセリフばかり聞き続ければだんだんと「そのセリフはマニュアルに書いてあるんですか」と返したくなってくる。
おまけにグループワークで学生相手に自己紹介すれば、同級生から「え?このためにわざわざ静岡から来たの?かわいそう~!」という謎の慈悲をかけられる始末。そのセリフを言うと一次試験の突破率が上がるみたいなジンクスでもあるんか。

とまぁこのように、地方の学生は東京人に憐れみの言葉を頂戴するケースが非常に多い。
どうして東京人は、東京に本社を置く企業がたくさんあることを知らないのでしょうか。いや、違う。きっと会話の糸口としてそう言ってくれているだけなのだ。

だが、さすがにそればかり言われ続けるとうるせーよとなる。
たまに北海道の子が東京に来ていたり、岡山から静岡まで新幹線を乗り継いで来ている人を見ると驚くほかないのだが、とにかく就職活動というのはかなりJRに貢献している。

なのでJRは就職活動応援キャンペーンみたいなことをしてくれると嬉しい。
数ヶ月で10万円以上落としたので、これくらいは言ってもいいでしょ。ね。


さて、それから話は面接に移りまして、学生が1人の場合は大体聞かれることも答える内容も同じなのだが、学生が2人以上のばあい、大変に面白い。

頑張って志望動機を憶えてきた結果、棒読みになってしまう男の子。
お前は舞台女優になれよ、と思うほど演技派の女の子。
書類通ったからとりあえず来ました感満載の、受け答えボロボロ眼鏡。
逆質問タイムで奇を衒いすぎて面接官と学生を困らせる電波系女の子。

などなど挙げればキリがないのだが、様々に個性があってとてもとても面白い。
きっとこの子はたくさん練習してきたんだろうなとか、面接官にハマってないのにキャラを押し通し続ける神経の太さに感動する場面やら、一時期趣味の欄に「人間観察」と書いていた僕からすれば至高の時間だった。

まぁ、とはいえ僕もそれなりに本気で取り組んでいたので、人様から見れば僕も「○○なキャラ」という風に捉えられていたに違いない。

上にも書いたが、面接なんて面接官にハマるかどうかが鍵なので、正直どんなに良いことを言ってもキャラが合わなければ落とされる。
正直なところ、面接を運ゲーというのはあまり好きではないのだが、しかしこればかりはどうしようもなく運が関わってくるものだと思う。

たとえば出身地や高校が面接官の所縁の地であればおそらく通過するし、人によっては趣味の話をしていたら内定をもらっていた、なんて話もあるそうだ。

グループ面接で「将来やりたいことは?」という質問を受け、普通ならば「○○ということがしたい。それを達成するために御社で働きたい」と答えるところを、「彼女がいるので、幸せにしたい」と真面目な顔で語っていた奴がいた。
僕は隣で噴き出してしまったのだが、なぜか面接官の感触がとても良く、ソイツはきっと通過したのだろうという匂いがした。

そんなのないでしょと。
説明会受けてESと履歴書を書いて、時間とお金をかけてわざわざ面接に来たのに、こんなヤツ相手に負けるのかと。そんなの薄情すぎるぜと。

そう考えるよりは、「運がなかったんだな」と一蹴するほうが遥かに健全であり衛生的である。

面接官も人間である。やっぱり合う合わないというのはあるものだ。
一介の学生に、そんな表面的な好みを越えた圧倒的な実力と受け答えができるはずもなく(もちろんできる人はいるだろうが)、介在するのはきっと運なのだと思う。

演技派女優がどんなに頑張ろうと、もし僕が面接官なら落としてしまうかもしれない。
それとなく真っ当な理由はつけるものの、真意としては「ただなんとなく気に食わないから」というおはなし。そしてその女優の顔面偏差値が有村架純だったら、まぁ間違いなく通過させちゃうんでしょうね。なにこれもうやだ。

 

というわけで、4ヶ月ほどの就職活動を経て、僕は少しだけ大人になった気がする。
大人になるとは偉くなるということじゃなくて、社会を知ってゆくということだろう。

人によってはそれを「汚れてゆく」「純真さを失う」と表現するかもしれない。しかし、それもまた生き抜くための知恵なのだと割り切るほうがずっと楽しい。

そうして「俺たち汚れちまったなぁ」と語らいながら胃に酒を放り込んで、肝臓に負担をかけていくのが人生なんでしょうね。本当にありがとうございました。