子役なのに子供じゃねぇじゃん
拝啓 親愛なる寺田心 殿
はじめまして。
突然お手紙を差し上げますご無礼をどうぞご容赦くださいませ。
いつもテレビで貴殿の元気なお姿を拝見しております。
去る6月10日には11歳の誕生日を迎えられたそうで、本当におめでとうございます。
さて、さっそく本題となりますが、このたび貴殿(以降「甲」)にいくつか申し上げたいことがございましたのでこのように筆を執った次第です。
御耳には決して届くことのない拙文であると存じますが、当方(以降「乙」)はついに甲に対して我慢の限界を迎えてしまいました。
古来より呑舟の魚は枝流に游がずとも申しますので、どうかご気分を害されぬよう殿上よりご笑覧くださいませ。
では早速。
何から書き始めれば良いのやら、まずは甲を画面越しに拝見することで乙の耐容一日摂取量が臨界点突破した理由について書き記したく思います。
乙は、甲の住まわれる天界の遥か下界、その中の小さな集落で産声をあげました。
幸いなことに、赤貧にあえぐこともなく今日までこうして恙なく命を繋いでこられました。
しかしながら、人間とはなかなかどうして貪婪な生き物なのでしょう。
数年ほど前、乙は自らの地位を顧みずにテレビなる電化製品を購入いたしました。
おそらく、虚仮なことにより良き生活を求め、娯楽に興じたいという願望を放擲できなかったことが原因と愚考しております。
そのうえ乙は民放チャンネルなる下賤な番組で、まことに恐悦至極ながら甲がお戯れになる御尊顔をたびたび拝見しておりました。
そうした不遜な行為が重なったことで、乙に天誅が下されたのでしょう。
乙は甲のお姿を画面越しに拝見しようとすると、次第に体中が痒くなり肌膚の疼きが止まらなくなってしまったのです。
甲の比類なき声音を拝聴したその瞬間、そのファンタスティックでエキセントリックでドラマチックな言辞に感涙する暇もなく、乙の右手は瞬時にリモコンなる粗悪機器を掴み、乙の意思に反してチャンネルを変えてしまうのです。
まるで乙の脳が、身体が、魂が、甲を全力で拒絶しているような錯覚に陥っているのであります。
しかしながら、乙は甲を嫌い、苦手意識を持っている、などといった不敬な念を持っていることは断じてございません。
御心得違いをさせてしまうような表現を重ねた非礼をお詫び申し上げます。
乙が甲に対して抱いているのはただひとつ、畏敬の念のみです。
現在乙の暮らす集落では「審美眼界のロナウジーニョ」と呼ばれるほどの高徳な僧侶がおり、その方によると、甲は「アポトキシン4869」なる妙薬を召されたのではないか、と申しておりました。
高徳な僧侶(以下「丙」)も乙同様、モニターという聖なるフィルターを通して甲のお姿をしばしば拝見するとのことでしたが、数年来ほどの時空を経ても甲のご様相が一向に変化しないことに疑義の念を抱いたというのです。
そこで奉納金の一部を使用して「ベルモット」と呼称される山吹色の髪を有した嬢子に極秘で調査を依頼したところ、とある研究所で若返りの霊薬開発をおこなっているとの情報を入手したと乙に報告しました。
乙は、丙の甲に対する背信行為が断じて看過できず、このとおりその事実を記すことを決意いたしました。
しかし畏れながら、丙は決して甲の秘匿情報を剔抉したいという考えではなく、純粋に甲に敬愛の情を傾けているからこその行動だったのだと拝察いたします。
きっと甲のような器量のある聖者であれば、丙の数々の無礼をお許しいただけると切に願っております。
末筆ではございますが、甲の益々のご活躍とご発展をご祈願すると共に、今後乙の甲に対するアレルギー反応が和らぐことを心より願っております。
年頃柄、声変わりされませんよう、どうぞご自愛くださいませ。
救いはアンパンマンの中に。乾パンは救いの中に。
『アンパンマンたいそう』という歌の中に、「アンパンマンは君さ」という歌詞が存在する。
じゃあお前はいったい何者なんだよ、なんて思っていた時期もあった。
アンパンマンというのはひどく傲慢なヒーローであると思う。
人は時に救いを求める。ピンチに陥ったとき。落ち込んでいるとき。塞ぎこんでいるとき。そして、お腹がすいているとき。
そのさなか突如現れた彼は、尺が足りないんじゃ!という大人の事情で敵を一蹴し(正確にはパンチ)、そして食物を与える。
僕はこしあん派なので、正直なところつぶあんの彼を食べようとは思わないんだけど、でも本当にお腹がすいていたとすれば、彼の姿はそれはもう神々しく見えるに違いない。
そうやって彼は、自らを神聖視し崇め奉らざるを得ない信者を増員させてゆく。
なんといっても、彼は見返りを求めない。ここに美学があり、カラクリがある。
彼のおこないは、ビジネスではなく紛れもない慈善事業。SDGsでありCSRでありNPOなのだ。
しかし人間というのは悲しき哉、見返りを求めるものである。
見返りというのは、自分が動いたときだけでなく、相手に何かをされたときも同様。
ほら、お隣さんにお土産もらったら絶対お返しの品とか用意するでしょ。
助けられた一般人がヒーローに向かって「せめてお名前だけでも...!」とか言うでしょ。
アンパンマンに命を救われ、そのうえ食物も与えられる。
だのに彼は口座番号の書かれた振込用紙を手渡すでもなく、「礼なんて要らないさ」とその場を後にしようとする。
なんたるモラルハザード。
彼は人間を一体なんだと思っているのか。
義理と人情を何よりも重んじる江戸っ子ならば、この彼の言葉に激昂すること間違いなし。
プライドがズタボロになったぶん、せめてその恩返しをするか、あるいは何もしないことへの報いを受けなければ男が廃る。
そういうギブアンドテイクの関係性を、どうして彼は理解できないのか。踏みにじられたヒトの思いを斟酌できないのか。
男はひとり、自部屋に閉じこもって泣いていた。
俺はなんて惨めな生き物なんだ。いっそこのまま死んでしまったほうが・・・
そう思ったまさにその時。
突如テレビの画面には、かの御仁が1/10スケールで射影され、そして高らかにこう歌うのだ。
「アンパンマンは君さ」と。
つまり、受けた恩は必ず返せと。けれどそれは恩義を受けた相手に向けてではなく、目の前で困っている人に、これからの時代を担う子供たちに、そして愛する家族に。
彼は決意する。もう一度、ここから踏み出そう。俺も役に立つ人間になろう。
誰かの役に立つのではなく、困っている人の役に立とう。
そんな思いの末に生み出されたものこそ、今の時代誰もが認知しているあの製品。その名も乾パンである。
備えがあるから憂いがなくなるのではない。憂いがあるから備えをするのである。
彼は幼い頃に震災で両親を失くし、祖母の寵愛を受けて育ってきた。
そんな彼も今や一児の親。
愛する妻と可愛い娘に恵まれ、決して裕福とは言えないながらもささやかな幸せを享受して過ごしてきた。
あるとき、彼は勤め先の都合で出張に行くこととなった。
妻と娘を残し、遠く離れたある土地へ。
玄関口で妻が所持させてくれた数枚のパンを片手に、電車に揺られること五時間。
やっとの思いで到着した父は、しかしその瞬間、激しい揺さぶりに思わず転倒した。
地が割れ轟音が響き木々が軋み悲鳴が耳を劈き、世界が怒っているようであった。地震である。
降りたばかりの電車は、気づけば数十メートル先で横転しており、駅ホームの屋根は緩やかな風に揺れて粉を吹いている。
男は唖然とした。
わずか1分前までの平和が、たった十数秒の出来事により、見事に破壊されている。
これが現実なのか、受け入れなければならないのか。
だが、男にはそんなことを悠長に考えている余裕などなかった。
妻は、娘は、無事なのだろうか。
娘は泣いていないだろうか。
ここよりも被害が大きくなかっただろうか。
昨年建てたばかりの家は、2人を守ってくれたのだろうか。
父は、横転した電車を横目に決断する。
今すぐに帰ろう、と。
父は歩いた。
会社のことなど、仕事のことなど、出張のことなど、とうに忘れていた。
自分が何のためにここに来たのか。そんなことよりも、今はもっと大事なものがある。
父は歩いた。ひたすら歩いた。
ひび割れたレールに沿って、ひび割れた地面を踏みしめて。
どこまでも、永遠にたどり着かないような道のりを、休むことなくひたすら歩き続けた。
そうして20時間がすぎた。
日が沈み、やがて昇り、いつもどおりの太陽。いつもどおりの朝。しかし、何もかもが違う朝。
彼はふと、自らの空腹に気づく。
思い返せば、丸一日何も口にしていなかった。
そう思った途端、唐突に腹の虫が騒ぎ出し、足がしびれるように痛み出し、強烈な眠気が彼を襲った。
でも彼は休んでなどいられない。休む時間など残されていない。
歩みを止めないまま、彼は背負った鞄から小さな袋だけを取り出して、再び背負い直した。
手に持った袋には、昨日妻が渡してくれたパンが入っている。
それを掴んで口に運ぼうとするのだが。
パンは布のようにガチガチに固まっていた。
昨日からひどく乾燥していたため、内部の水分が抜け、パンも干からびてしまったのだろう。
その触感に彼は食欲も失せ、いま一度袋の中に戻そうとも思ったのだが。
一口食べてみる。歯に触れた瞬間、水気を失ったパンの表面がザザザッという効果音を出しながら、少しずつ口腔内に入っていった。
やはりボソボソ。硬くてとても食えたものじゃない。でもなんだこれ、めちゃめちゃ美味しいじゃねぇか。
なんだよこれ。バカみたいに旨いじゃないか。
「空腹は最高のスパイスである」という言葉がかつて嫌いだった。
ブルジョアが気まぐれに発した言葉に思えたし、約やかな生活を繰り返してきた彼にとって、空腹とは苦痛でしかなかったからだ。
だけども、違った。
空腹とは魔法のごとく食べ物を美味しくしてくれるのだ。幸福を与えてくれるのだ、紛れもなくスパイスだった。
ただでさえ水分が足りていないのに、そんなことに今更気づいて、彼は涙を流しながら歩を進めた。
そして50時間後。ようやく彼は自宅に戻った。
いつもと変わらず照りつける太陽、青い空、町並み、匂い。そして、妻と娘。
ひどい臭いを放ち、ボロボロになった服になどお構いなしに、妻が涙ながらに飛びついてきた。
どうやらこちらは何事もなかったらしい。それでいい。
いつもどおりの笑顔で「おかえり」と出迎える娘に、彼は幸せを見つけた。
そして同時に、ヒーローになる決意をした。
彼は会社をやめ、3年もの年月を費やして乾パンを生み出した。
売り出した当初は、絵に描いたように酷評だった。
面と向かって「マズい」と言われたこともあった。けれど、それで良かった。
なぜなら彼は、ホンモノの幸せの味を知っているからである。
※これは作り話です。そしてゲーテなんていう人の名前は知りません。
また、乾パンはアンパンマンよりも先に生まれました。
それから僕は乾パンが嫌いです。あれは氷砂糖を食べるための試練だと思っていつも食べています。
かつて『ボールズ』というバンドがいた
音楽が好きだ。
そう感じる人は、きっと世の中に多いと思う。
だからこそサブスクに反発する人もいるし、逆に嬉々として迎合すべきだと論じる人もいる。
この議論が収束しないのは、たぶんどちらの言い分も正しくて、だからこそ両者譲れない想いがあるからであろう。
かくいう僕も音楽はとても好きで、社会人になって「年を追うごとに音楽を聴かなくなった」と話す同世代と比較すれば、きっと音楽と向き合う時間は多いはずだという自負はある。
もちろん、社会人になることで車での通勤時間が生じ、その時間を音楽に傾けるため、むしろ学生時代より係わりが増えた、という人もいるだろうが。
いずれにしても、音楽との付き合い方はここ10年で大きく変わったし、50年前なんかではきっと今の時代を予想できた者はいないだろう。
だから僕らが10年後に音楽とどのように向き合っているのかなんて、まったくもって見当がつかない。
だけどおそらく、100年前も今も30年後も不変のものは絶対にあって、それは「音楽が好き」という思いではなかろうか。
形や接点は変われど、その本質であるところの思いだけは変わらない。なんとも素敵なことじゃないですか。
さて前置きが長くなったが、そんな「音楽が好き」という思いが槍のように鋭く突き刺さってくるバンドが昔あった。
いや、昔というほど昔でもない。ほんの数年前の話である。その名前を『ボールズ』と言った。
はじめ彼らの名前を聞いたとき、「ん? 洗濯用洗剤かな?」と勘違いした。
今となってはどこで彼らの名前を見つけたのかも、どうやって調べたのかも、なぜ好きになったのかも分からない。
けれども、上の勘違いのおかげで彼らに興味を持ったとするならば、勘違いをして良かったと素直に思う。
上の動画を観てもらえば分かるだろうが、彼らの音楽は優しい。
優しさとは、これまた定義づけることが難儀な概念ではあるが、ハンバートハンバートとか吉田山田あたりとはまた違う優しさがある。
勝手なイメージで申し訳ないが、学校のクラスではカ-スト中位層の、派手でもなく地味でもなく、都道府県で喩えると静岡県。
僕は静岡県民なので勝手に親近感を覚え、勝手に好きになりました。ごめんなさい。
でも、この動画を観れば分かると思うがやっぱりメンバー全員仲が良さそうで、そして音楽を楽しんでいる様子が伝わってくる。
初期のスピッツにも似たメロディーもちょっとクセになるし、セカンドアルバムは粒揃いというか、とてもキャッチーな楽曲が多い。好き。
話は戻るが、サブスクの登場によって音楽との接し方はとてもライトなものになった。
気軽に音楽を聴くことができる環境が整備されたことで、音楽がより生活に密接した存在になると思いがちだが、気軽さとは言い換えれば特別感の消失である。
かつて僕が生まれる前の時代ではラジオ番組で流れる曲が全てで、スピーカーの前にレコーダーを置き、流れる音を拾って音楽を楽しんでいたという。
だからその瞬間に雑音や呼び鈴、犬の鳴き声が混じってしまわないよう、細心の注意を払っていたらしい。
音楽を聴くという行為には、そういった特別感があった。
とはいえ、現代において特別感が姿を消したかと言えば全然そんなことはなくて、コンサートやファンクラブ、ライブグッズの購入を通じて特別感は満たされている。
それに海外では絶滅危惧のCDも、日本では初回限定盤などの施策によって(売り上げは落ち込んでいるとはいえ)未だ第一線で活躍している。
要するに時代によって「金銭や時間を支払うべき価値」が変化しただけのことであり、最初に記述したとおり音楽との付き合いが希薄化しているわけではないと思う。
そしてそんな時代に『ボールズ』の音楽があって、僕はそれがとても好きだった。
たしかに、「一番好きなバンドは?」という問いに彼らの名前を出すことはなかったかもしれない。
金がない学生の僕が「コンサートに足を運ぼう!」と思い至るほどに情熱を傾けてはいなかったかもしれない。
けれども日常の中でふと彼らの音楽に触れ、3ヶ月に1回でも半年に1回でもふとした瞬間たまに聴きたくなるような、そんな平成時代の素敵なバンド。それが『ボールズ』であった。
彼らは2017年に解散してしまったけれど、山本剛義の声は好きだし曲も好きだしギター3人いたのも面白かったし、というわけで今でもたまに聴いています。
解散したバンドの楽曲がストリーミングでいつでもどこでも聴ける。
なんか、幸せじゃないですか。