お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

宝くじという魔物

キャッシュレス推進と言われてずいぶん久しい。
僕の周りでも、1年前ならその単語に見向きもしなかった人が「この前の飲みの会費LINE Payで払ってもいい?」なんて聞いてきたりして、あぁ、時代は少しずつ変わっているのだなぁなんて感じる。

しかし日本という国は残念ながら、先進国の中でも極めて現金主義的というか、ドイツと並んでキャッシュレス決済比率が低いことで有名だ。

その背景としては、国民の現金に対する信用度が高いことや、店舗側のキャッシュレス決済端末の導入・運用コストがかかることが一般的に挙げられている。

2019年秋の増税に向けて国がキャッシュレス推進プロジェクトを考えているようだが、なんというかやりかたが下手くそすぎて非難轟々。


隣国の韓国では、世界的に見てもキャッシュレスがかなり進んでいて、その理由としてクレカ利用額の一部の所得控除や宝くじの参加券を譲渡するという施策を政府が促進しているのが大きい理由だとされている。

はじめてきいたとき、宝くじの券をあげるのはけっこう面白い案だなぁと思って、単純な思考回路で日本もそうすればいいのに、なんて考えた。

日本のキャッシュレス促進案はチラチラ耳にするが、ちょっと難儀でよく分からない。
けっきょくこの間のPayPayみたいに一時的な爆発が起きてすぐに収束して終わりそうな気もするし、商品券に至ってはキャッシュレスのもっと奥深くに根ざしたペーパーレス化という課題をまるで無視していて謎すぎる。


まぁそういう意味では、宝くじがいまだに紙媒体である理由も不明瞭である。
コンサートのチケットは徐々にスマホ内で完結できるようになり、電車の切符なんていまやそのほとんどが電子マネー

その情報をどうして利活用しないのは甚だ疑問ではあるのだが、しかし「誰のものか分からない」紙切れよりは幾分かマシだと考える。


けれども、では紙媒体が本当に悪なのかどうかという点については、いささか議論の余地があろう。

たとえば道端で札束を拾ったとして、その現場を誰も見ていなかったらどうだろうか。
そのまま盗んでしまう人もいるだろう、警察に届ける人もいるだろう。

盗んでしまう人は、ではどうして盗んだかというと、そりゃあお金がほしかったからであろうが、その前提として「ここで自分がお金を盗んでも足がつくはずがない」と考えたからではないだろうか。

もし札束にRFIDタグGPS機能、さらにはデータとして所有者の名前が登録されていた場合、おそらくその札束を誰も盗むことはないだろう。

 

と、このような出来事が実際身の上に起きたことがある。

数年前のこと、近所を歩いていたらふと道端に紙切れを発見したので近寄ってみると、そこには「宝くじ」の文字があった。
一枚だけ道端にポツンと、風に飛ばされそうなところを道路脇の雑草が纏わりつくことで身動きが取れなくなった状態で僕が第一発見者となった。

何も考えずにそれを手に取り、「抽せん日」が間違いなく未来の日付であることを確認した後、あろうことか僕はそれをポケットにしまいこんだことがあった。


家に帰り、表面に記載されている「第○○○回 ××宝くじ」みたいな文言をスマホで調べてみると、やはり抽せん日はそこから数週間後。
どう見てもホンモノだし、というかニセモノの宝くじなんてあるはずないと思っていたし、というわけで僕はたった1枚の宝くじ(¥300相当)を偶然にもゲットしたのだった。


それからの毎日は、かつてないほどにハリと弾力のある素晴らしいものだった。
買ってもいないただ拾っただけの宝くじを持っていることが、もうすでに当選しているような気になってしまい、当選したら誰に言おうか、あるいは言わないか、何を買い変えようか、その代わりに何を捨てようか。

夢は膨らむ。期待も膨らむ。妄想は広がる。世界が広がる。


その数週間、僕こそが物語の主人公であった。
「宝くじが当選したときの流れ」というネットの記事をいくつも閲して、脳内のシミュレーションは完璧に近いものだった。

 

いったい何が僕をそこまで昂揚させたのか。
今にして思えば、その宝くじを拾う少し前、映画「チャーリーとチョコレート工場」を観たのが良くなかったのだと思う。

同映画では、貧乏な家庭に生まれた少年チャーリーが、偶然道端で拾ったチョコレートに入っていた金のチケットを手にしたところから物語が始まる。
もし僕が同じ状況だったら、「当たった!当たったんだよ!」などと大声で自宅に帰っても、父母が冷静な顔で「で、どこで複製したんだ?」などと訊いてきそうなものである。ひどいな。


だが、貧乏とまではいかなくとも裕福な家庭と言うには憚られるものもあったし、僕の幼少期はまさに我慢の連続だったし、ここいらで大きな転機が訪れても何ら不思議ではない。あぁ、かつて憎み恨んだこともあったが、人間とは神のもとに平等であったのだ!


抽選日にはそんなテンションで朝一の宝くじ売り場に行ったものだから、たった1枚の紙切れを持ってきた十代の若者が「¥0」を前に打ちひしがれていた光景を、いったい販売員の方がどのような気持ちで見ていたのかは想像に難くない。

こいつはたった一枚だけ購入して換金に来たのか?それで当たると思っていたのか?そんな絶望に満ちた目で私を見るんじゃない。急に声のトーンを下げるんじゃない。
あのときの店員さんには、時空を越えてお詫び申し上げます。

 

ちなみに僕はそれ以来宝くじを買ったことがない。というかその時も購入はしていないのだから、10年以上自腹で宝くじを買っていない。

よく「宝くじは夢を買うものだ」などとのたまう者がいるが、正直負け惜しみもいいところである。
理性と感情の不協和を解消するために、人は自分が納得できる解を無理くり導出することがあるが、上の例はまさしくそれ。


僕は単純に悲しかったし、宝くじは絶望を買うものだ、と感じた。

たぶん、プラスとマイナスの計算をすれば、ゼロになるのだ。
妄想の時間は楽しい。家族と「当たったら車買い替えようね」とか「宝くじ当たったらみんなで旅行に行こう」とか、そういった時間はかけがえのない財産になる。

だから宝くじが外れたとしても、内心悔しがりながら「楽しい時間をありがとう」と笑って終えることができるのだ。


しかし結果が悪いまま終わるのはとても気持ちが悪い。
よく、人にアドバイスをするときは「最初に悪かった点、それから良かった点を言ってあげるほうが相手の印象は良くなる」と言うが、けっきょく有終の美てきな、終わりよければ全てよし的な、まぁいわゆる大団円をみんな望んでいるのだ。


それなのに、宝くじは購入者の9割9分以上を地の底に落としてやまない。
期待させるだけさせておいて、いざ抽選日になるとその本性が牙をむく。そして落胆した人の背中を見ながら、ざまぁ見ろと言わんばかりの大きな声で、札束を手団扇に嘲笑するのである。

宝くじは性格が悪い。友達になりたくないタイプ。
僕は決してお金持ちだから、とか、有名人と知り合いだから、などという理由で友達を作るようなタイプではない。

だから向こうから近寄ってこない限り、僕は恐らく彼と絶交したままでしょう。

 


なんて、どうでもよいお話でした。はは。

嘘から出たまことくん(13さい)

おめでたいことに先日ついに姪が生まれ、はれて僕は「叔父さん」になったわけであるが、日常における変化というものは自身のモノの見方や価値観にまで影響を与えるらしく、どうにも最近「絵本」が気になるようになった。

絵本といえば「泣いた赤鬼」とか「桃太郎」「さるかに合戦」あたりがあまねく知られている部類だと思うが、改めて読み返すと総て教養があってなんと面白いことか。いとをかし。

 

絵本には映画と同じようにストーリーがあって登場人物がいて、そしてきちんとオチがついている。

東京五輪の開会式では「起承転結」がテーマと決まったらしいが、当然ながら絵本にもその法則が適用されている。

それどころか、映画ではやや難解になるラストシーンにいたっても絵本では知能指数の低い子供にきちんと伝わるような表現で書かれており、主人公やその取り巻き、悪役などの立ち位置が明確で構造が分かりやすい。そのうえとてもタメになる。なにそれ絵本ってすごい。

 

上述した教養というのも、「他人に酷いことをしてはいけない」「嘘をついてはいけない」など、日常生活において大切にすべきことばかり。どこぞの著名人が絵本に手を出すと大抵の場合自分本位のストーリーを組み上げたあげく実用性に欠けた内容になることが多い気もするが、映画と違って基本的にハズレがないコンテンツというのも珍しい。

まぁ僕はこのブログで嘘ばかり書いているので、きっと「オオカミ男」の絵本は読んだことがないのでしょうね。なんてかわいそうな男。

 

 

それこそ嘘というのは、「夢を言い続けているうちに現実になる」みたいな精神論に近しい言説や巷説らしきものは結構あって、かつて私の知り合いであった某氏は、こんなことを語ってくれたことがあった。

 

 

 

ある日、僕がまだ中学校を卒業したばかりのころ、数年ぶりに某氏のもとを訪れると彼は、

「『嘘から出たまこと』ってよく言うだろ?あれはホントのことなんや」

僕が家に入るなり息つく間もなくそう言った彼の目は、何かもの言いたげなそれであった。本来ならばお茶でも出してもらおうかと考えていた僕であるが、性急に続きを述べようとしているその血眼を見て、僕はとりあえず話を聞かせてもらうことにした。

 

某氏は語る。

「信じてもらえんかもしれんがな、ついに俺のもとにも出たんや」

「出たって、なにが」

「なにってそりゃお前、まことに決まっとるだろ」

「まこと?」

「そう、まことくん。13歳や」

「・・・じゅうさんさい?」

 

こやつはなにをのたまっているのだ。何を言っているのか分からない。何を言いたいのかも分からないし、脈絡がなさすぎて論理が破綻していた。

彼は13歳と言いながら指では片手で5本、他方で3本の計8本を出していたのも意味がわからない。あと誰だよまことくん。

 

「…えっと、つまりどういうこと?」

「どういうこともそういうこともないわい。俺がな、このまえカミさんにちょこーーっとだけ嘘をついたんや。ほんのちょびっとな。そうしたら突然目の前に男の子が現れてな、こう言いよる。『こんにちは。ぼくはまことです。13歳です』ってな」

「・・・はあ」

「ほいだら俺は内心めちゃくちゃ驚いてるんだけどな、ポーカーフェイスっちゅうの? 意外と冷静でおられたんや。そんで『どうしたの?』って聞いてみたんや。そうしたらまことくん、なんて言ったと思う? ちょっと考えてみい」

「…え?」

 

いきなりすぎる質問。分かるわけがない。

田舎すぎて近所に店舗がないんだけど、もしかして「いきなりステーキ」ってこんな感じでステーキが出てくるのかしらん。やだ怖い。

なんてことを考えているうちに彼の口は再度開かれた。

 

「そしたらな、『まことです。いきなり出てきてすみません』って、そう言ったんや」

なんだよ、意外と普通の答えだった。もっと衝撃的な発言があったのかと思いきや、なんてことない日常あいさつ。

ちょっとジョイマンっぽくて予想はつかなかったものの、礼儀がなっててよろしい。

 

「俺はなぁ、そのとき感動したんよ。13歳の男の子がな、とつぜん出てきてしもうて、最初は戸惑ったんだけどな、でもとにかくいい子で、俺は感動してたんや。そんでもう一回な、『まことくんはどうして出てきたの?』って聞いてみたんよ。そいだらまことくん、なんて答えたと思う? ちょいと考えてみいや」

 

んな無茶な。というかさっきから薄々感じてはいたが、彼は僕の返答など全く気にしていないのではないか。僕がここで脳みそフル回転させて答えなくても勝手にまた話し始めるのではないだろうか。

あといいから教えてくれよ誰だよまことくん。

 

「えぇと…」

「おっ、なんやなんや?」

 

意外な食いつき。とりあえず考えたふりをしておこうと思ってテキトーにそう発したのだが、かえって裏目に出てしまうとは。

しかしここまできたら何か言うしかないだろう。

 

僕は考える。そして口を開けた。

「えっと、『まことです。いきなり出てきてすみません』とか?」

「それほまことくんが最初に言ったやつや。まことくんはな、おんなじことを何回も言う壊れたロボットではありましぇん!」

 

違った。無念。

 

「・・・いいか、まことくんはな、『あなたが嘘をついたから出てきました。まことです』って、俺に向かってたしかにそう言ったんや」

どうしてヒロシ風? いや、そんなことはどうでもいい。

当時の僕は、突如始まったよく分からない話を聞きながら、その続きが無性に気になってきていた。

 

「おじさんが嘘をついたからまことくんが出てきたってこと?」

「そういうことや。ただなぁ、まことくん、どうやらカミさんには見えてないらしいのな。ほんだで誰に相談もできんで、どうしたらいいんかなあと途方に暮れてたんや」

 

まことくんは彼にしか見えないらしい。なんだかどこかで聞いたことのあるような設定である。

 

「だからな、とりあえず俺はな、まことくんに聞いてみることにしたんや。『まことくんはこれからどうするの?』ってな。ほいだらまことくん、こう言いよる。『あなたが嘘を撤回したら僕は消えます』ってな」

「…おぉ」

 

まことくんは嘘がなくなると消えるらしい。なんだかどこかで聞いたような設定である。

 

「だけどな、消えるっちゅーことはつまり、俺が嘘を撤回したらまことくんにはもう会えないんかと思うとな、なんだか寂しくてなぁ。そのまま結局まことくんと1ヶ月一緒に暮らしたんやけど、」

「1ヶ月! ・・・まじか」

「そうこうしているうちにな、いつしかまことくんが夜になると月の出ている方を見てしくしくと泣くようになったんや。その顔がな、あまりにも悲しげだったんでな、俺はまた聞いてみることにしたんや。『まことくん、今度はどうしたの?』ってな。そうしたらまことくん、何て言ったと思う? ちょっと考えてみいや」

「・・・月に帰らなくてはいけない」

「ビンゴや。なんで分かったん? もう俺の話すこと無くなったやんけ。ほいでまことくん、翌日の夜に『さよならー』言うて、そのまま月に帰っていったんよ」

「へえ」

「・・・・・・」

「・・・・・・え? 終わり? それで終わり?」

「なにをそんなに驚くことがあるん。まことくんが帰ったら終わりだろ。お前も答え当ててしまって、もう俺の話すことないやん」

「いや、だから月に帰るときのひと悶着とかなんとか…」

「ひと悶着なんて何もないがな。引き止めたらまことくん悲しむだろうし、カミさんには見えてないんだから、俺一人でどうにかなるもんでもないんや。そら俺だって悲しいけどな、大声で喚いたところで隣の加藤さんにまた通報されるのがオチやで」

「え、通報されたことあるの・・・」

 

なんという悶々とした終わり方だろうか。

決してハッピーエンドを望んでいたわけじゃないけど、なんというか起承転で終わった気がして非常にもどかしい。

 

もし1000円を出して続きが聞けるのであれば、もしかしたら僕は潔く支払ったかもしれない。

 

 

すると突然、ガタンッという音とともに僕らの背中側の扉が勢いよく開かれた。誰かが入ってきたらしい。

 

「あっお父さん、こんなところにいた! 酔ってるんだから静かに隅っこの部屋でじっとしてなさいよ!」

 

入ってきたのは某氏の妻であった。彼を見つけるやいなやそう怒号を飛ばした彼女は、呆れ顔で男を見つめている。

 

「俺が酔ってるわけないだろ。お酒なんて1ミリも飲んでないんやから」

「昼間からビールを3缶開けた人がよくそんなこと言えるわね。それこそ酔ってる証拠よ、まったくもう…」

 

吐き捨てるようにそう言った彼女は、これ以上なにを言っても無駄だと勘づいたのか再度扉に手をかけるとみたび勢いよく閉め、そのまま何処かに行ってしまった。

 

「ははは、怒られちゃったね」

 

僕は慰めのつもりでそう言ったのだが、返事がない。

あれ? と思い彼の方を振り返ると、彼は目を丸くして明後日の方向を向いていた。何をしているのだろう、ついにトチ狂ったのか? などと思っていると、彼は先ほどまで饒舌だった口を静かに開けてこう呟く。

 

「お前、まさかまことか…?」

 

男はおたおたと歩き出し、目には涙をこしらえていた。

 

「・・・・・・」

 

その様子を傍で見ていた僕。例に倣って僕もそっと扉を開けると、おじさんのうろつくその部屋を後にしたのであった。

 

 

 


世の中は様々なことがある。

信じられないこと、もどかしいこと。始まりがあれば終わりがあると思いきや、尻切れとんぼになることだって多々ある。

 

けれどもやはり全ての事象は教養を孕んでいて、このとき僕が得たのは「昼間から飲みすぎるのはよくない」という戒めの感情であった。

500円ランチに行ったら540円とられた

タイトルでネタバレをするのはあまり僕の趣味ではない。
特に昨今はYouTubeなどの動画サイトでサムネイルが重要視されていたり、もちろんブログのタイトルやwebニュースの記事名によってアクセス数や広告のコンバージョン率なんかも変動してきたりするのでどうしたって注意深くなってしまうんだけども、かといって読む前から結論をばら撒くのは出オチ感がすごいから嫌い。

僕だってサムネに釣られたり秀逸なタイトルに食指が動くなんてことはザラにあるが、しかし閲覧側が求めるよりも前にオチを語ってしまうのは、もはや今年のコナン映画の犯人が毛利小五郎であると言っているようなものである。
たまには「らーーん!」以外の人物名も叫んでやれよ。


まぁ、しかし今回ばかりは仕方ないのだ。
これ以外にタイトルが思いつかなかった。いつも記事のタイトルは最後に考えているのだが、この記事ではなんとなく当初想定していたタイトルと最後に考えたタイトルが完全に一致したため、もうこれ以外のタイトルは考えられなかった。僕の限界がこれであった。


でも分かりやすくていいじゃないか。
簡単に言えば、このたび500円ランチに行った僕であるが、お会計のときに540円請求されたというだけの話である。タイトルまんまじゃねえかよ。

 

***************************************

先日のこと。
その日予定されていた午前中の用事が想像以上に早く終わり、昼過ぎの他用まで小一時間ほどの暇を持て余すこととなった。

もともと昼飯はコンビニでおにぎりか何かを購入して十数分の間に完食する算段を立てていたため、思わぬ空き時間に所在なげ状態に陥った僕。


ならばせっかくなので昼ごはんをちゃんとした場所で済まそうではないかという結論に至り、近隣の500円定食を売りにしている和食料理店に足を踏み入れることにした。

そのお店に入るのは初めてではなく、以前家族と一緒に訪れたことはあった。けれども500円定食を始めたのはごく最近のことらしく、それ以降に来たのは今回が初めてだった。


店に入ると、まだてっぺんを過ぎていなかったためか空いていてすぐに席に案内され、さほど多くないメニューをパラパラと捲りながら何がいいかな、と選定にかかった。

選定とは言っても500円メニューの欄には3つしか掲載されていなかったため、さばの味噌煮込み定食をすぐさま注文し、あとは食事が出てくるのをひたすらに待った。

 

おそらく自ら進んでさばの味噌煮込み定食を頼むのは、今後の我が人生において金輪際ないかもしれない。
さいきんの若者らしく僕は魚よりも肉が好きなので、もし3つしかないメニューに生姜焼肉定食やハンバーグ定食などが存在していたら迷うことなくそちらをセレクトしていただろう。

けれども僕に与えられた選択肢は、さんまの塩焼き定食か刺身三種盛り定食、そしてさばの味噌煮込み定食のいづれかであった。


こうやって上の3つを見てみると、なんだか無性にさばの味噌煮込み定食が食べたくなる。というよりむしろ味噌が食べたい。

うなぎの蒲焼はタレが美味しいから食べているのと同じように、僕がさばの味噌煮込み定食を頼んだのはさばが食べたかったからではない。そこに染み込む味噌が食べたかっただけなのだ。


なんてことを考えているうちに店の引き戸は次々に開かれて、そのたびに客が数人ずつ店内に押し寄せた。

ユニクロのアウターみたいなやつを羽織るごま塩頭の男性から、全身紫色に染め上げられたおばあさんまで、年齢層はやや高め。
以降も、失礼だが押し並べて低~中所得層の身なりをした人ばかりが暖簾をくぐり、ははっ、どうせコヤツらも500円ランチを求めてのさばった連中なのだな、と自分のことを棚に上げて4人掛けテーブルに1人で腰掛ける僕がそこにいた。


いやもう罪悪感がすごいのなんのって。
案内した店員が悪いのだということは分かっているが、なんとなく周囲の視線が痛い。


早く料理が運ばれてこないかなぁと思って厨房のほうを覗くと、追加注文があると勘違いされて店員さん出てきちゃうし。違うんだよ、待っているのは店員じゃなくて料理なんだよ。

その後15分ほど待機してようやく出てきた料理は、僕がなんとなく思い描いていたとおりのさばの味噌煮込み定食で、あまり臨戦態勢でなかった僕のお腹もいざ料理を前にすると色を変えるように充分なキャパシティーを用意してくれた。


んで食べた。
普通に美味しかった。

当初僕は、さばに纏わりつく味噌さえ食べられればいいと考えていたが、実際に口内に運んでみると自分の認識が謬見であったことを知らされる。

至極当たり前のことだが、さばの味噌煮込み定食はさばがあってこその食饌だ。
さばがなければさばの味噌煮込み定食は成立しないし、その名を付与されることも許されない。

要するに、さばに脂がのっていてめっちゃおいしかった。
旬から少し外れているせいかさばは若干小ぶりにも見えたが、そのぶんだけ身がしまっていて、ほどよい脂とほのかな甘味、そしてやはりそこに染み入る優しい味噌の味が極上のうんたらかんたらを奏でていた。ほれ、みんなもなんか急に食べたくなってきたでしょ。そんなもんなのよけっきょく。


てなわけでコンビニのおにぎりでは絶対に味わえない逸品を堪能した僕。
居心地が悪いわけではないが、なんとなく周りの「食い終わったのならばさっさとゆけ」みたいな視線に晒されているような気がしたため、食べ終わると同時にそそくさと席を立ってレジスターのあるカウンターにまで足を運んだ。

すると僕が坐していた一役終えたばかりのテーブルにはすぐさまフロアの店員が駆け寄り、机上を拭き清めてのち食膳を持して厨房に戻ったかと思うと、あっという間に待機していたご老輩がその席に案内された。
やはり僕という存在は店の回転率を考えるとかなりの不良債権だったに違いない。

何も考えずにあの4人掛け席に案内したバイトの子は、おそらく僕に聞こえないような場所で店長に叱られ、あやつが席を立ったらすぐに別の複数客を案内せよという命を与えられたに違いない。
お昼の忙しい時間に注意を受けたバイトくんは、防衛機制でいうところの「置き換え」を適用してなんとなく僕のことが嫌いになり、いつの間にかお店のブラックリストに掲載される。


だとすれば、もう僕は二度とこのお店の味を堪能できないかもしれない。
そう思うとレジで店員を待つかたわら、ひどく寂しいような感覚に襲われた。


あぁ僕はもう、あのさばの味噌煮込み定食を食べられないのか。
明日以降はこの暖簾をくぐって店内に進入した途端、謎の警報装置が鳴り響いてお縄にかかってしまうのだろう。


であれば、これ以上の罪を重ねないためにもきちんとお金を払って、波風を立てずに店を去るのが得策だ。

そう思って財布を開いて待機していると、店長の妻らしき人物が現れ、なにやら伝票をチラチラと見ながらこう言い放つ。


「お会計は540円になります」
「え?」
「え?」

こだまでしょうか。いいえ誰でも。


一瞬、言っている意味が分からなかった。
いや、言っている意味は分かった。僕がお店側から540円を請求されているのだということは、見るにも聞くにも明白だった。

僕が分からなかったのは、その理由である。


「540円...ですか」
「はい、そうです」


店員は僕の驚き呆れた顔には目もくれず、あくまで淡々と応答をしている。


ごひゃくよんじゅうえん。たしかに僕は、500円ランチを謳っているお店に来た。
そして他の客の注文を盗み聞きするからに、みながみな口を揃えて500円ランチを注文しているのも知っている。


けれども500円が実は税抜き価格だったなんて、いったい誰が予想できるだろう。
おそらくこの場にいる誰もが会計時に500円玉1枚をレジで提示すれば万事解決すると、そう思い込んでいるに違いない。

であれば、僕が真相を明らかにする必要があるのではないか。


しかし慌てるな自分。
僕には今、自由に行動ができない制約があることを忘れてはならない。
おそらく今の問答で、僕が税抜きの500円ランチという構造に疑問を持っていることをお店側が察知しただろう。

さきほどからマークされている僕がこれ以上店側に歯向かうような真似をすれば、きっと明日にでも謎の組織に消されるに違いない。


いや、もしかしたら既に店の外には特殊部隊が配備されていて、何かを仕出かした途端に店に進入して制圧、もしくは店から出てきたところを遠距離射撃で一発、ということも考えられなくもない。

これからの行動ひとつで、数分後僕の脳天に風穴が開いているかどうかが決定してくるのだ。

 

というより、しょうじきなところ僕はこの時こう思ってしまっていた。


しめしめ、ブログのネタがひとつ決まったぜ。


なんとおろかなことであろうか。
ブログというのは、書きたいことがあるから書いているのではないのか。書くために書いているのではない。手段としてブログというコンテンツがあるだけなのだ。

それなのにネタが見つかったというだけで僕の頬はつい緩んでしまっていた。
これは自分の心にゆとりができたとか、寛恕な心意気になってきたとかそういう類の問題ではない。

僕がもっとも忌み嫌う、手段と目的の転倒を起こしていたのだ。これはゆゆしき事態である。


ならばこの状況をどうにかするほか自分のアイデンティティーを保つ術は存在しない。
僕はブログを書くために生きているのではない、自分という道を生きているのだっ!


という決意表明のもと、僕はふだん絶対に話しかけない店員にこのときばかりは問い質した。

「500円ランチって、税抜500円ってことだったんですね」

財布の小銭入れを漁りながら、世間話でもするようにそう切り出した僕に向かって店員はこう返す。

「そうなんですよ。けっこう勘違いされる方が多いみたいで」
「あー・・・、そうなんですねぇ~」


終わった。僕は負けた。為す術もなく完敗した。
この店員、自らに非があるとは微塵も思っていない。


ふつうにかんがえて500円ランチと言えば、463円+税ではないのか。
2人で一品ずつ注文したら、英世をひとりだけ召還すれば良いだけの話ではないのか。

昨今のキャッシュレス社会に現金主義店舗が対抗する手立てとして、ウォレットレスかつ現金払いという手段を選択したのではないのか。


しかし僕は間違えていた。
そもそも500円ランチというフレーズを勝手にワンコインランチと解釈した僕が悪かったのだ。

お店は悪くない。
よくよくメニューを見返すと、価格は税抜き表示ですときちんと明記されている。

その表記にすら目をくれず、思い込みの勘違いの末お店側に楯突くような真似をしてしまうのはやはりどうしたっていかんのでしょう。特殊部隊よ、いいから私を撃っておくれ。

 

というわけでしっかりと540円を支払ってお会計を終えた僕。

立つ鳥跡を濁さずということで、未練がましくトイレを借りるような真似もせず、出口へ向かおうとしたそのとき。

 

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 

レジで応対してくれた店主の妻らしき人物が、淡々とした口調はそのままで、そう言い放った。