お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

500円ランチに行ったら540円とられた

タイトルでネタバレをするのはあまり僕の趣味ではない。
特に昨今はYouTubeなどの動画サイトでサムネイルが重要視されていたり、もちろんブログのタイトルやwebニュースの記事名によってアクセス数や広告のコンバージョン率なんかも変動してきたりするのでどうしたって注意深くなってしまうんだけども、かといって読む前から結論をばら撒くのは出オチ感がすごいから嫌い。

僕だってサムネに釣られたり秀逸なタイトルに食指が動くなんてことはザラにあるが、しかし閲覧側が求めるよりも前にオチを語ってしまうのは、もはや今年のコナン映画の犯人が毛利小五郎であると言っているようなものである。
たまには「らーーん!」以外の人物名も叫んでやれよ。


まぁ、しかし今回ばかりは仕方ないのだ。
これ以外にタイトルが思いつかなかった。いつも記事のタイトルは最後に考えているのだが、この記事ではなんとなく当初想定していたタイトルと最後に考えたタイトルが完全に一致したため、もうこれ以外のタイトルは考えられなかった。僕の限界がこれであった。


でも分かりやすくていいじゃないか。
簡単に言えば、このたび500円ランチに行った僕であるが、お会計のときに540円請求されたというだけの話である。タイトルまんまじゃねえかよ。

 

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先日のこと。
その日予定されていた午前中の用事が想像以上に早く終わり、昼過ぎの他用まで小一時間ほどの暇を持て余すこととなった。

もともと昼飯はコンビニでおにぎりか何かを購入して十数分の間に完食する算段を立てていたため、思わぬ空き時間に所在なげ状態に陥った僕。


ならばせっかくなので昼ごはんをちゃんとした場所で済まそうではないかという結論に至り、近隣の500円定食を売りにしている和食料理店に足を踏み入れることにした。

そのお店に入るのは初めてではなく、以前家族と一緒に訪れたことはあった。けれども500円定食を始めたのはごく最近のことらしく、それ以降に来たのは今回が初めてだった。


店に入ると、まだてっぺんを過ぎていなかったためか空いていてすぐに席に案内され、さほど多くないメニューをパラパラと捲りながら何がいいかな、と選定にかかった。

選定とは言っても500円メニューの欄には3つしか掲載されていなかったため、さばの味噌煮込み定食をすぐさま注文し、あとは食事が出てくるのをひたすらに待った。

 

おそらく自ら進んでさばの味噌煮込み定食を頼むのは、今後の我が人生において金輪際ないかもしれない。
さいきんの若者らしく僕は魚よりも肉が好きなので、もし3つしかないメニューに生姜焼肉定食やハンバーグ定食などが存在していたら迷うことなくそちらをセレクトしていただろう。

けれども僕に与えられた選択肢は、さんまの塩焼き定食か刺身三種盛り定食、そしてさばの味噌煮込み定食のいづれかであった。


こうやって上の3つを見てみると、なんだか無性にさばの味噌煮込み定食が食べたくなる。というよりむしろ味噌が食べたい。

うなぎの蒲焼はタレが美味しいから食べているのと同じように、僕がさばの味噌煮込み定食を頼んだのはさばが食べたかったからではない。そこに染み込む味噌が食べたかっただけなのだ。


なんてことを考えているうちに店の引き戸は次々に開かれて、そのたびに客が数人ずつ店内に押し寄せた。

ユニクロのアウターみたいなやつを羽織るごま塩頭の男性から、全身紫色に染め上げられたおばあさんまで、年齢層はやや高め。
以降も、失礼だが押し並べて低~中所得層の身なりをした人ばかりが暖簾をくぐり、ははっ、どうせコヤツらも500円ランチを求めてのさばった連中なのだな、と自分のことを棚に上げて4人掛けテーブルに1人で腰掛ける僕がそこにいた。


いやもう罪悪感がすごいのなんのって。
案内した店員が悪いのだということは分かっているが、なんとなく周囲の視線が痛い。


早く料理が運ばれてこないかなぁと思って厨房のほうを覗くと、追加注文があると勘違いされて店員さん出てきちゃうし。違うんだよ、待っているのは店員じゃなくて料理なんだよ。

その後15分ほど待機してようやく出てきた料理は、僕がなんとなく思い描いていたとおりのさばの味噌煮込み定食で、あまり臨戦態勢でなかった僕のお腹もいざ料理を前にすると色を変えるように充分なキャパシティーを用意してくれた。


んで食べた。
普通に美味しかった。

当初僕は、さばに纏わりつく味噌さえ食べられればいいと考えていたが、実際に口内に運んでみると自分の認識が謬見であったことを知らされる。

至極当たり前のことだが、さばの味噌煮込み定食はさばがあってこその食饌だ。
さばがなければさばの味噌煮込み定食は成立しないし、その名を付与されることも許されない。

要するに、さばに脂がのっていてめっちゃおいしかった。
旬から少し外れているせいかさばは若干小ぶりにも見えたが、そのぶんだけ身がしまっていて、ほどよい脂とほのかな甘味、そしてやはりそこに染み入る優しい味噌の味が極上のうんたらかんたらを奏でていた。ほれ、みんなもなんか急に食べたくなってきたでしょ。そんなもんなのよけっきょく。


てなわけでコンビニのおにぎりでは絶対に味わえない逸品を堪能した僕。
居心地が悪いわけではないが、なんとなく周りの「食い終わったのならばさっさとゆけ」みたいな視線に晒されているような気がしたため、食べ終わると同時にそそくさと席を立ってレジスターのあるカウンターにまで足を運んだ。

すると僕が坐していた一役終えたばかりのテーブルにはすぐさまフロアの店員が駆け寄り、机上を拭き清めてのち食膳を持して厨房に戻ったかと思うと、あっという間に待機していたご老輩がその席に案内された。
やはり僕という存在は店の回転率を考えるとかなりの不良債権だったに違いない。

何も考えずにあの4人掛け席に案内したバイトの子は、おそらく僕に聞こえないような場所で店長に叱られ、あやつが席を立ったらすぐに別の複数客を案内せよという命を与えられたに違いない。
お昼の忙しい時間に注意を受けたバイトくんは、防衛機制でいうところの「置き換え」を適用してなんとなく僕のことが嫌いになり、いつの間にかお店のブラックリストに掲載される。


だとすれば、もう僕は二度とこのお店の味を堪能できないかもしれない。
そう思うとレジで店員を待つかたわら、ひどく寂しいような感覚に襲われた。


あぁ僕はもう、あのさばの味噌煮込み定食を食べられないのか。
明日以降はこの暖簾をくぐって店内に進入した途端、謎の警報装置が鳴り響いてお縄にかかってしまうのだろう。


であれば、これ以上の罪を重ねないためにもきちんとお金を払って、波風を立てずに店を去るのが得策だ。

そう思って財布を開いて待機していると、店長の妻らしき人物が現れ、なにやら伝票をチラチラと見ながらこう言い放つ。


「お会計は540円になります」
「え?」
「え?」

こだまでしょうか。いいえ誰でも。


一瞬、言っている意味が分からなかった。
いや、言っている意味は分かった。僕がお店側から540円を請求されているのだということは、見るにも聞くにも明白だった。

僕が分からなかったのは、その理由である。


「540円...ですか」
「はい、そうです」


店員は僕の驚き呆れた顔には目もくれず、あくまで淡々と応答をしている。


ごひゃくよんじゅうえん。たしかに僕は、500円ランチを謳っているお店に来た。
そして他の客の注文を盗み聞きするからに、みながみな口を揃えて500円ランチを注文しているのも知っている。


けれども500円が実は税抜き価格だったなんて、いったい誰が予想できるだろう。
おそらくこの場にいる誰もが会計時に500円玉1枚をレジで提示すれば万事解決すると、そう思い込んでいるに違いない。

であれば、僕が真相を明らかにする必要があるのではないか。


しかし慌てるな自分。
僕には今、自由に行動ができない制約があることを忘れてはならない。
おそらく今の問答で、僕が税抜きの500円ランチという構造に疑問を持っていることをお店側が察知しただろう。

さきほどからマークされている僕がこれ以上店側に歯向かうような真似をすれば、きっと明日にでも謎の組織に消されるに違いない。


いや、もしかしたら既に店の外には特殊部隊が配備されていて、何かを仕出かした途端に店に進入して制圧、もしくは店から出てきたところを遠距離射撃で一発、ということも考えられなくもない。

これからの行動ひとつで、数分後僕の脳天に風穴が開いているかどうかが決定してくるのだ。

 

というより、しょうじきなところ僕はこの時こう思ってしまっていた。


しめしめ、ブログのネタがひとつ決まったぜ。


なんとおろかなことであろうか。
ブログというのは、書きたいことがあるから書いているのではないのか。書くために書いているのではない。手段としてブログというコンテンツがあるだけなのだ。

それなのにネタが見つかったというだけで僕の頬はつい緩んでしまっていた。
これは自分の心にゆとりができたとか、寛恕な心意気になってきたとかそういう類の問題ではない。

僕がもっとも忌み嫌う、手段と目的の転倒を起こしていたのだ。これはゆゆしき事態である。


ならばこの状況をどうにかするほか自分のアイデンティティーを保つ術は存在しない。
僕はブログを書くために生きているのではない、自分という道を生きているのだっ!


という決意表明のもと、僕はふだん絶対に話しかけない店員にこのときばかりは問い質した。

「500円ランチって、税抜500円ってことだったんですね」

財布の小銭入れを漁りながら、世間話でもするようにそう切り出した僕に向かって店員はこう返す。

「そうなんですよ。けっこう勘違いされる方が多いみたいで」
「あー・・・、そうなんですねぇ~」


終わった。僕は負けた。為す術もなく完敗した。
この店員、自らに非があるとは微塵も思っていない。


ふつうにかんがえて500円ランチと言えば、463円+税ではないのか。
2人で一品ずつ注文したら、英世をひとりだけ召還すれば良いだけの話ではないのか。

昨今のキャッシュレス社会に現金主義店舗が対抗する手立てとして、ウォレットレスかつ現金払いという手段を選択したのではないのか。


しかし僕は間違えていた。
そもそも500円ランチというフレーズを勝手にワンコインランチと解釈した僕が悪かったのだ。

お店は悪くない。
よくよくメニューを見返すと、価格は税抜き表示ですときちんと明記されている。

その表記にすら目をくれず、思い込みの勘違いの末お店側に楯突くような真似をしてしまうのはやはりどうしたっていかんのでしょう。特殊部隊よ、いいから私を撃っておくれ。

 

というわけでしっかりと540円を支払ってお会計を終えた僕。

立つ鳥跡を濁さずということで、未練がましくトイレを借りるような真似もせず、出口へ向かおうとしたそのとき。

 

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 

レジで応対してくれた店主の妻らしき人物が、淡々とした口調はそのままで、そう言い放った。

けっきょく駅のホームではどこにいるのが正解なのか

たぶん、男には避けられない戦いというものがあると思う。
きっと女の人にもあるのだろう。


そして男の場合、その相手というのは己自身の場合が多い。
よくアスリートの人たちがインタビュアーに「最大の敵とは?」なんて訊かれた日に「最終的な敵はやはり、自分自身ですかね☆」と答えているが、まさしくそれ。

おとこなんてプライドの塊みたいなものなので、理詰めしていきながらも最終的には自分が納得するかどうかで物事の評価を下すことも多い。
なのである意味では単純だが、それゆえに苦労することもしばしば。


たとえばこんなとき。


僕は毎日電車に乗っているのでどうしたって電車ネタの割合が大きくなってしまうんだけど、ごくたまに駅のホームでぼーっと突っ立っていると、スマホか何かに夢中になっている人が僕の後ろに列をなしてしまうことがある。

あれがめっちゃ困る。僕の精神を著しく損壊する拙劣な行為なのである。


僕はきほんてきに、電車には一番最後に乗りたい主義であるから、新幹線でもなければおおよそ列に並ばないし、よって自ら先陣をきって列を形成するはずがないのである。
一番最後に乗るというのはつまり、乗車後は扉にいちばん近い人間になるということで、だからもっとも降車がスムーズな立ち位置であるということ。

僕は予め計算のうえ、降車駅で出口にもっとも近い扉から乗車するようにしているので、まさに名実ともに改札口のトップランナーなのだ。


けれども他人とはそんな僕の心積りなんて知る由がないから、いわば「そこに山があるから」的なスタンスで、そこに僕が立っているから、と軽々しく列を作ろうと画策してくる。
まさかコイツらは私を嵌めようとしているのだろうか。

おまけにテキトーな場所に立っている僕のあとに列を作るだけあって、その人はスマホや音楽などに集中していて基本前を見ていない。おまけにイヤホンないしヘッドフォンをして外界の情報を完全シャットアウト。いやもう帰れよ。
もはやディズニーランドの待ち時間90分コースと同じ要領で僕の後塵を喜んで拝んでやがる。


極悪非道な所業である。
あえて数字の書かれた地面から離れた場所でスタンバっていたのに、その配慮を踏みにじるかのごとく彼はずかずかと僕のテリトリーに侵入しようとするのだ。

これに関して何が一番イヤなのかというと、どうして僕がここまで心をざわつかせなければならないのかと腐心してしまうという、その一点に尽きる。
間違いなく僕は悪いことはしていない。だってちゃんと紛らわしくないように地面の数字からも黄色い線からも離れているし、なんだったら電車が来る方向と間逆を見ているし。

それなのに、どう考えても僕の後ろに並んだやつが悪いのに、なんだかとっても申し訳ないことをしている気分になる。それがたまらなく鬱陶しい。

 

けれどもまだひとりだ。僕の後ろについている人は、まだ幸いなことにまだたったの1名。
それにまだ電車が来る気配もないし、後ろのやつも偶然スマホを見ていて立ち止まっただけ、という可能性がないわけでもない。


ならば事態が深刻になる前に、「おれは先頭じゃないぞ」と示すべくウロウロしてみようか。それが一番効果的なのではないか。
そう決意していざ実行しようとした矢先、ふとこんな推測が脳裏を掠める。

 

「僕が動いたら、電車が来たと思って後をついてくるのではないだろうか」

 

後ろの人は、重ね重ねスマホを見ているので、突っ立っているだけの人間の後ろに並んでいるという現状をまるで把握していない。
その理解もしていない状況で、つまり列に並んでいるという認識だけを持った状態で、いきなり前の人間が動き始めたらどうするだろう。

そのこたえは明白だ。電車が来たのだと思ってついてくるに違いない。特に音楽を聴いて外の音が聞こえないような状態ではなおのこと。


だとしたら迂闊に動くのは危険である。
もし仮に後ろの人がついてきて、ホームを回遊でもしてしまった日には、仲良しカルガモの親子ごっこみたいな変態羞恥プレイを公衆の面前でしてしまったことになる。僕の経歴に傷がつく。

おまけに昨今の物騒な世の中だ。後ろの人が恥ずかしさのあまり僕を線路に突き落とすという行為が起きてしまった場合、2時間程度電車が遅延することにもなりかねない。僕は悪くないのに!後ろの人間が悪いのに!となどとのたまっても、周りから白い目で見られて駅員さんにも渋い目で見られ、警察が来たらもう僕はおしまい。それでも僕はやるマゲドン。

というわけで、社会的影響が大きくなる前にケリをつけるのが本望である。

 

なんて思っているうちに、悪夢というのはさらに加速するものである。
ついに恐れていた事態、2人目の行列が完成してしまう。

おまけにそいつもスマホとイヤホン。お前らはそんな装備で電車に乗ってスパイ養成所にでも行くんか。


どうしてきちんと番号が書かれたところに並ばんのかね。
むしろちゃんと並んでいるところにはおばあちゃんがひとりしか居なかったりするわけで。そんなに僕の後ろが好きなら別にいいんだけど、ここに並んでいても扉、開きませんよ?


けれども自分に加えて見ず知らずの2人の運命まで半強制的に背負わされた僕は、結果的に責任が重くなるという現象が発生してしまう。
本来の正しい列に並んでいたら、もしかしたら空席に座れたかもしれないという後ろの人間の機会費用を奪い、あまつさえプライドを傷つける行為こそ悪質。しかも第三者的視点からするとおそらく未必の故意に見えるだろう。


もうここまでくると、逆にきちんと番号の前に並んでいなかった僕が責められる立場になってしまう。数の暴力。集団って怖い。

そうこうしているうちに、こんどは赤フレーム眼鏡のサラリーマンあたりが「お?ここ人気の列じゃん」的なノリで後ろについちゃう。
居酒屋じゃねえんだよ。空いてるところ行けよマジに。「おっ、大将今日もやってる?」みたいな顔で列増やしてるんじゃないよ。


コイツはただのアホだから気にしなくてもいいんだけど、アホは結構頻繁にチラチラ前を見てくるものだから、「あれ、なんで先頭のやつあんな頓珍漢な場所に並んでいるんだ?」などと怪訝な表情を向けてくる。

アホのくせに鋭いとは、まったくもって度し難い。いや、気付くのが普通なんだけどさ。


ここまで来たら、もう後ろの3人をどうするのかというのは大した問題じゃなくなり、自分自身がどうするかというほうが大きな課題となってくる。

だって考えてもみてほしい。
客観的に見て、僕と後ろの3人のあわせて4人のうち誰が一番間抜けに見えるかというと、やはりどう考えても僕である。

後ろのやつは、先頭を信じて並んでいるだけのいわば取巻きみたいなもので、僕の立ち位置はその元締め的な、アホ御一行の幹事みたいなものであろう。


たとえるならば、アーティストの出待ちをするために会場に駆けつけた最初のやつが僕。そして後ろの3人が、そんな僕を見て勝手に付いてきた人たち。
けれども会場を間違えてぜんぜん違うところに来てしまっていた、みたいな、そういう哀れさがある。

するとやっぱり悪いのは僕だし、後ろのやつはとりあえず僕に向かって怒りの感情が湧くのが普通だし。ってなにそれ理不尽。

 

てな事情があり、僕は最近反対車線側で待つようにした。
少なくとも僕が住む田舎では、同じ時間に反対方向の電車が来ることは稀なので、これで結構乗り切れることが多い。

 


まぁもっとも、反対車線側で突っ立っていたとき、後ろに人の気配を感じた日には、僕の精神がどうなることやらと想像するだけで身震いを禁じえないわけだが。

ファジーな言語

「お金がほしい」というブログ名でくだらない文字の羅列を書き続けること早幾年。

多少は長文記述にもタイピングにも慣れてきて、その代わりに中身の面白さと更新頻度は半減して。

開設当初を振り返ると、まさかこんなに続くとは想像してなかっただろうし、かといってやめるつもりも更々なかったし。
早い話が、落としどころを見つけられずにのうのうと続けてきた結果がこの有様、というだけの話だろう。


まぁでも、もしかしたらこの地球のどこかに当ブログの更新を待っているような奇特なお方がいるのかもしれないし?
一応アクセス数は停滞しているように見えて地味に上がっているし?

といった具合でどうにかモチベーションを保ってやっております。


でもやっぱりね、これを言ったら負けだと思うけど、このブログって名前が悪いと思うの。

だってほら、「お金がほしい」よ。
これって人類のほとんどが心のうちで思っていることだから、言うなれば「地球平和」とか「男女平等」みたいなニュアンスに近い気がする。

そんな普遍的な思想と、実際のコンテンツの内容が全然噛み合ってない。ブログ名と記事が喧嘩している。
せめて「お金がほしい」という記事のタイトル名だったら分かるんだけど、ほら、ブログタイトルに「お金」という文字が入っていると怪しい悪徳商法のプロ集団サイトかと思われそうじゃない。

それだけでかなり損をしている。


というか今ふと思ったのだが、何気なく使っているこの「お金がほしい」って外国人にとって結構難しい言葉なのではないだろうか。


というのも、日本人が英語を学習するとき、よく5文型(SVCとかSVOCとか)を基礎として叩き込まれるのと同じように、おそらく日本語を学習している外国人も同じように文型を学習するのだろう。

そして上記の型を「お金がほしい」に適用させようとしたとき、多分これは「(S)OV」の型になる。

一般動詞の場合、日本語と英語は大概動詞と目的語(格)が反転するので、英語で言う「SVO」は日本語で言う「SOV」と同義。
そして英語が説明的な(記述的な)言語であるのに対して日本語は空間共有的な(会話的な)言語であるため、しばし主語が失われる。

「お金がほしい」というのも本来ならば「私はお金がほしい」と書くべきところ、日本語という言語にとって「私は」という人称は不要であり、なくても意味が通じるため排除されている。


ちなみに話は逸れるが、スペインでは日本語と同様に私(Yo)や彼女(Ella)などの主語を置かない場合も多い。
その代わりに、主体によって動詞を6パターンの活用方法で分けるため、たとえば「今朝草むしりをしていた」という内容の文を書くだけで、そこには主語が誰であるかの情報もある程度含まれていることになる。

反面、英語はかたくなに私(I)とか彼(He)といった主語を排除しない構造なので、ネイティブでも「He don't have…」とか崩して書いちゃうことがないわけでもない。
洋楽の歌詞でも多分「He don't・・・」でヒットする曲はたくさんあると思うので、興味があったらどうぞ。まぁおそらく歌の場合は、文法よりもリズム感や韻を意識した結果、というパターンが多いだろうけど。


本当に話が逸れてしまった。うっかり。

んで「お金がほしい」についての話に戻るが、先述したように「私はお金がほしい」が本来の型ならば、直訳すると「I want money」となる。


ここで僕は思うのだ。

中学一年生にこの問題を出すとどうなるか。

1)次の英文を和訳しなさい:I want money.


おそらく、半分くらいの生徒がこう書くのではないだろうか。

A.私はお金を欲している。


もちろん正解である。
何も間違ったことは言っていないし、文法的に誤っている点もない。

けれども日常生活で使うには、やや違和感の残る表現であることは誰しもが認めることだろう。

この回答を「え、普通に「お金がほしい」でいいじゃん」と思いながら眺める人もたくさんいるはず。僕もそのひとり。そしておそらく、その回答を書いた生徒もまた然り。


ならばその生徒はどうして素直に「お金がほしい」と書かなかったのか。随分回りくどい説明をしていますね。分かりますかこれが奥義「文字数稼ぎ」ですよ。


その答えは皆さんお気づきの通り、「が」という格助詞である。

たとえばこの文型(SVO)と同じフレーズで有名なものに「I have a pen.」というものがあるが、これは「私は(1本の)ペンを持っている」と誰もが訳せるだろう。

それはこの「I have a pen.」が実に教科書どおりというか、「誰が(S)」「どうした(V)」「何を(O)」を律儀に遵守すれば必ず正解できる問題だからである。


翻って渦中の「I want money.」の場合は、自然に訳そうとすると「何を(O)」の部分が「お金が」になってしまう。
教科書的に「~を」で締めくくりたいのに、そしてどう考えても目的語なのに助詞が「が」になってしまう。

おかしい。私は何かを間違えたのだろうか。

生徒は混乱するだろう。

「が」というのはなんとなく、主語のあとに付帯していそうな言葉なのにどうして目的語の後についてしまうんだ!
・・・やはり俺が間違っているのか? 英語を学習して数ヶ月でこの問題に挑んだ俺が間違っていたと認めなければいけないのか?

生徒のペンは上白紙の上で小刻みに震えている。

 

・・・いや、待てよ。

しかしここで生徒はあることに気付く。
wantにはたしか、「~(物などを)ほしい」のほかに「(~を)欲している」という訳が辞書に載っていたではないか。

「ほしい」に対して「お金が」という構造が鉄壁であるなら、wantの訳を転換させることで打開を図ろうじゃないか!

 

という葛藤を経て「A.私はお金を欲している。」と書く生徒がいるのではないだろうか。

「いやそんなヤツいねぇだろ」と思う人もいるかもしれないけど、意外といるのよ。塾講師やってたからわかるけど。しかもそれで正解をもらえるの分かっているし。


そういう現象が起きているのもね、おそらくこの「が」が何を意味するかとかどういう役割を持つかとか、そういった日本語を学ぶ機会を設けていなかったためだと思うので(だって僕も分からないし)、今後文部科学省には是非今一度正しい日本語とそのあり方についてのカリキュラムを義務教育として取り入れていただきたい所感である。

あとついでに茶色ってどうして茶色って言うのか気になる。お茶の色じゃなくてうんこの色だろ。これも追加でよろしくお願いします。


って何の話だっけ。

外国人!
そうだ、どうして義務教育の話になった?

まぁいいや。とにかく外国人も中学生も外国語学習を頑張ってくれ。

 

 

 

今思いついた。ピーマンの肉詰めも気になる。
ふつう、肉詰めのピーマンじゃね?