お金がほしい

お金がほしい

2020年10月をもって更新をストップします。永らくのご愛読ありがとうございました。

夕方のチャイムが市民の精神を破壊しようとしている

夕方のチャイムと言えば、世間一般的にはキーンコーンカーンコーンとか夕焼け小焼けとかがメジャーどころだと思うのだが、我が町は違う。


平成27年に市の歌とやらが制定されてから、昼の12時と夕方17時にそいつが大音量で町中に響き渡るようになったのだ。
これまでプライバシーとか個人情報云々とかでわざわざ公にすることもないだろうと思い言及してこなかったが、もうバレてもいいのでとりあえず皆さんに聴いてみてほしい。

https://www.city.iwata.shizuoka.jp/shisei/kouhou/shika/furusato_iwata.mp3

静岡県磐田市、と聞けば政令指定都市でないにもかかわらず意外と知名度は高いのではないか。
なんといってもヤマハ発動機の本社があるし、サッカー好きでなくともジュビロ磐田の名前くらいどこかで聞いたこともあろう。

 

そんな我が町磐田市
これまで当ブログでは無名であることと匿名であることを良いことに散々田舎だの何もないだのと知力の限りを尽くして罵倒してきたため今若干怯えているのだが、新駅ができるまで20年以上も費やしているほどゆっくりと時間の流れる場所であるから、きっとこのブログに制裁がくだる頃には僕は寿命を迎えていることでしょう。

てなわけで今後も安心して不満タラタラに地元を貶し続けると思うので、どうか市役所にお勤めの方は見ないでください。

 


さて、そろそろ本題に戻ろう。
皆さん、お聴きいただけただろうか。


おそらく一聴してもらった方には、僕が何を言わんとしているのか察しがついたはずである。
重い。暗い。侘しい。そして物悲しい。

ちなみにこれ歌っているのは新妻聖子さんなんだけど、おそらくこの歌をミュージカルで歌い上げるときには片腕に伴侶の亡骸を抱えて涙ながらに口ずさんでいることでしょう。
まぁとはいえマイナーコードではないから絶望感はないんだけど、毎日毎日これを聞かされていると何て言うのかな。

死にたくなる。

 

世の中にはサザエさん症候群なるフレーズが存在していて、我が国日本では月曜日を迎える数時間前からTwitterのホットワードに「月曜日」の文字列が急増するくらいみんな月曜日が大好きなんだけど、我が町で流れる夕方5時のチャイムはこれと同じ効果をもたらすのだ。


夕方5時。ただでさえ切ない気分になるたそがれ時。
遠くでカラスの鳴き声が聞こえ、寂寞の念に駆られるそんな時分。それを知ってか知らずか、あの歌が大音量で町中に流れるのだ。

耳馴染みの良い郷愁感を扇情する優しいメロディ。それに呼応する犬の遠吠え。公園で遊ぶ子供らの声。


とたん僕の脳裏には「あぁ、今日も何もせず終わってしまった。こうして一日、また一日と無駄にして人生が終わっていくんだな。こんな僕なんて生きていてもしょうがないのではないのか」とか考え出して、我が身の愚かしさや世間の不遇さ、現実の儚さなんてものに思いを馳せてしまう。
これが本当の逢魔が時ってやつだろうか。

もはや一日の終わりでなく、人生の終末のような気分にさせられる。得体の知れない恐怖が全身を包みこむ。

 

夕方5時のチャイムは外で遊ぶ子供らの帰宅を促す効果があるらしいのだが、こんなの大人まで帰りたくなるじゃん。
いっそ子供らの好きな仮面ライダーか何かの主題歌でもガンガンに流したほうが帰宅効果は期待できそうである。

 

と、ここまで夕方5時のチャイムの憂鬱さについて語ってきたが、どうもこの「夕方5時のチャイム」という文字を見ると、この曲を思い出さずにはいられない。

www.youtube.com

いずれにしても、物悲しい気分になる。

ね、志村さん。

書くほどのことでもなし

最近、無意識下においてモノをぽんっとどこかに置き、数分後にそれを探し回るという遊びがマイブームである。

うそ。
全然流行ってない。なんならさっさとやめたい。

どうしていつもこうなるのかしら。まったくもって慙愧に堪えない。
特に最近はスマホの雲隠れ術がスキルアップしたのか、数十分探してもなかなか顔を出してくれない。

んで終いには奥義「固定電話からの呼び出し」を召還するんだけど、けっきょくどこにあるか分からないんだよね。なんなの。


ちなみに今日は配送業者が拙宅に取りに来るダンボールの中に収納されていた。ガムテープを剥がしたら彼がいた。
危うく我がスマホとそのデータたちが出荷されて売り飛ばされてインドかどこかの貧困地域の家族を映し出す多機能カメラとなるところであった。

こういうのよくない。ホントよくない。
つい先日バイト先で同じことをやらかして、従業員総出で探し回って結局自分が持っていたという、「てへっ」では済まされない失態を犯したばかりだというのにこの男、まるで学習能力が欠如している。さっさと死ぬべきであろう。


そんなことを思いながら洗濯物を干していると、2本の選択竿に跨る大きなクモの巣を発見。
書き取り帳に大変よくできましたと花丸をくれていた先生のように、僕もこの巣に賞賛を浴びせたくなった。それくらい見事なクモの巣であった。

とはいえきっと誰もが想像するような典型的なクモの巣で、いやだからこそフォルムが美しい。僕はクモが大嫌いだけど、クモの巣は木に巻きつけるとわたがしっぽくなるから嫌いじゃない。意味が分からない。

しかし我が両手には既に大量の洗濯物Feat.ハンガーが掴まれていて、指の血管がそろそろデスメタルを奏でそうになっていたためやむなし。どうにかして洗濯物を一時退避させると近くに落ちていた鉄の棒を片手に、おじゃましますと破壊工作に打って出た。
これほどの大きなクモの巣を、一体どれだけの労力をつぎ込んで作ったのだろうか、そしてその費用対効果はあったのか、あるいは飢えをしのぐことはできたのかなどと熟考しているうちにクモに対する罪悪感が生まれる、なんてことはこれっぽっちもない。私はドライな人間である。ちなみにドライアイではなく、乾燥肌にも悩まされていない。どちらかといえば脂性肌に悩まされている。どうでもいいですね。

これは自然の摂理。強きものが弱きものを制する、世はまさになんとか時代であるからして、クモに対しての同情心なんてこれっぽっちも生まれやしない。
彼はそう。巣を張る場所が悪かった。ただそれだけのことである。我が家の選択竿に栄光の架橋をつくってくれたところで僕はちっとも嬉しくないし、利用者もお前だけだろう。

そういうわけでものの見事に鉄の棒に絡み取られた住居。ところがどっこい。クモは鉄の棒が気に入ったらしく、棒を片付けようとしたところ糸と一緒になって付いてきてしまった。
まるでクモを吊り上げた釣り師のよう。けれどもなんだろう、どうぶつの森で大物かと思いきや長靴だったときのあの感覚によく似ている。

僕は逡巡する。こやつをどうしてくれようかと。
このまま放置するか、しからずんばこの手で殺めてしまおうか。

クモ嫌いにとって放置という選択肢はまずありえないので却下するとして、しかしこやつはなかなかできる男。
あのシンメトリー値の高いクモの巣を作る職人技、かなりの手練れである。

というわけで逃がすことにした。我が家の中に侵入してしまったクモに命はないが、外にいる分には無害認定を下している。僕は薄情なようで意外と慈悲深いのである。
けれども我が家の敷地内に逃がしてしまえば、またも同じようにご立派な邸宅を設える可能性も否定できない。いやいやお前じゃないんだからそこらへんは学習するでしょ、という批判があればよかったんだけど、残念ながらクモに学習能力はない。

というわけで僕が出した結論は、隣の家に植樹されている潅木の枝にクモの巣ごと巻きつかせるというというものであった。
ウチと隣の家の間には申し訳程度の柵しかないため、片手だけ不法侵入するのは容易である。よって誰も見ていないことを確認したのち、鉄の棒にぶら下がるクモを木の枝と葉になすりつける。ここまでに費やした時間、わずか数十秒。やはりこの男、死んだほうがいいのかもしれない。


けれども日頃から積善の余慶を盲信してやまない僕なので、たまには人間としての均衡を保つためにも悪行は必要である。
普段悪さをしているヤンキーが花を愛でていると女子からモテるときく。あれと同じ原理。


久方ぶりのクモとの格闘を制したものの、緊張していたらしくトイレに行きたくなった。
扉を開けるといつも便器が出迎えてくれる。ありがたや。

ところで、トイレというのはどうしていつもこちらを向いて待っているのだろうか。
いつも何も考えず扉とにらめっこするように坐する僕らであるが、たまには逆向きの便座があってもいいのではないだろうか。

扉に向かって座るということは、うっかり扉を閉め忘れた場合局部を晒してしまうリスクがあるということである。
一方和式便器の場合、扉から見えるのは尻の割れ目のみであり、タイミングが悪ければ茶色い何かがお目見えするのかもしれない。

なにより洋式では見られてしまったときの恥じらい顔を目撃者に見せてしまうことが辛い。
目なんて合ってしまった日には、その人の顔を思い出して寝付けなくなる。まるで恋。

 


ところが視点を変えると洋式便所の場合、便蓋というオリバーカーンがいるから、もし逆向きに座っていたら背中まで覆い隠してくれる。
こちらは恥ずかしくなく、むしろ扉を開けてしまった人のほうが居た堪れない反応を示すことだろう。

ということで良いこといっぱい。今後は後ろ向きの便座を導入してはどうだろうか。

という世紀の発見に気付いたところで、今回の記事を締めくくろうと思う。
再三言うが、書くほどのことでもなかった。

とりあえず映画「聲の形」を観てほしい

このニュースがはじめに出たのはもう数ヶ月前のことになるが、明日の2018年8月25日21:00~Eテレでアニメーション映画「聲の形」が地上波初放映されることが決定している。

僕が言いたいのは、とりあえず何でもいいから多くの人に観てほしいということだけ。
なんだったらこれだけで今回のブログを終了してもいいような気がする。

www6.nhk.or.jp


でも僕個人としてはこのブログを通じて宣伝活動をしようなどとはさらさら思わないので、ここからはいつもどおり余計な情報を付加することだけに専念するとしよう。

ちなみに「聲の形」というのは元々2011年から別冊少年マガジンに連載されていた漫画であり、今回Eテレで放映されるのはそれを元に2016年9月に全国公開されたアニメーション映画である。
Wikipediaによれば第40回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞や第26回日本映画批評家大賞アニメーション部門作品賞、第20回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞など、国内外のノミネートをあわせると更に多くの賞を受賞している作品で、興行収入は23億円以上。

最近は「君の名は。」が250億円を突破したとかで20億円なんて大したことないと思われがちだが、上映劇場数がその1/3程度であり且つ上映日数も圧倒的に少なく、さらに声優として芸能人を起用してTVで猛プッシュさせるなどという宣伝方式を採らなかった映画として20億円を突破するのは凄いことである。


ただそれ以上に何が一番すごいのかといえば、この映画のストーリー展開が非常に重い構造を持っているところであるように思う。

一般的なイメージとして、男女の高校生が出てくるものはラブコメを主軸にてんやわんやありつつもラストはハッピーエンド、という期待や推測があるのではないだろうか。
そのうえ起承転結の「転」の部分も比較的ライトなものが多く、いわゆる笑って泣けてという誰もが楽しめる作品が横溢しているような気がする。


だが「聲の形」は、そういったイメージを思わぬ方向に払拭してくれた。

学生生活・男女・人間とくれば、もちろん恋愛・修学旅行・卒業式など、ストーリーの題材にしやすいような要素がこれでもかというくらい詰まっている。
だがそれと同時に、日常生活には映画で描かれにくいような暗くてじめじめした問題も多く潜んでいる。

それは例えばいじめであったり、差別であったり、人間関係のもつれであったり。
映画「聲の形」では、これまで青春グラフィティものであまり触れてこられなかったそんな問題を、あろうことか真正面からド直球に描いている。

 

正直、初見時にはかなり衝撃を覚えた。
こんな絵のタッチで、こんなありふれた登場人物で、ここまでディープな問題に全力で首をつっこむか、と。


ありふれた登場人物と書いたが、映画「聲の形」ではキーパーソンとして耳の聞こえない少女が登場する。そこはもしかしたら「ありふれた」から外れるかもしれない。

けれどもよく考えてみてほしい。
耳が聞こえないというのは、世間一般的に見ると単純に体の機能としての問題だけなのであろうか。

人の意見に耳を傾けようとしない人や世間に興味のない人だって、あるいは耳が聞こえていないのと同義ではないのか。


そういった問題というのは世間一般では障碍や欠点として評されることもあるけれど、人間誰もがある種の不完全性を抱えているならば、それは善でも悪でもなく単なる個性である。

 

けれども、特に小学校から高校卒業までの学生時代というのは教室という狭い空間内で否応なく交友関係を築かねばならないため、どうしたって集団心理が働いてしまう。
その力が内側に向いているうちはいいのだが、排他的なベクトルを持った途端いじめや暴力に直結する。


少し話はそれるが、僕が思うに「若者ことば」というのはこういった空間が影響して出てくるものではないのだろうか。

言葉というのは一度口から出てしまったら戻すことはできないので、誰しも慎重になることはあるだろう。
僕の考えでは、それが学生の間では顕著に現れてくるのではないか。

考えてもみれば、狭い社会空間内の交友関係が密にならざるを得ない状況において言葉を選ぶ動きが多いのは当然である。


道端ですれ違うだけの二度と会わないような人になら「おい、危ないだろ!」など多少キツめの言葉を浴びせても後悔はないが、今後何ヶ月も同じ教室内で顔を合わせる相手に向かって軽率な態度で言葉を軽んずるのは愚かな選択だ。
その後のクラスの空気や自分のクラス内でのポジションを考えれば、そりゃ誰だって風見鶏にもなるしイエスマンにだってなる。


そんな状況があるからこそ、日本の若者は「若者ことば」を作ることでどうにかセンシティブなティーン世代を卒業してきた。
以前僕がブログ内で触れた女子高生の「みたいな」問題についても、もしかしたら明言を避けることにより意見の対立を未然に防ぐ一種の防衛が入っているのかもしれない。

ex-finprethe.hateblo.jp

この他にもKY(古いか!)や卍など共通認識のある記号や言葉を使うことで帰属意識や仲間意識を確認したり、ディアゴ系(古いか!)やシャカ男(古いか!)などと誤魔化しつつも陰で我々を盛大に貶すのも複雑な心理が働いていることが想像つく。

 


このように若者世代は言葉に敏感だから、映画「聲の形」において耳の聞こえない少女というのはかなりのハンディキャップを負っているように見える。
詳しいところは実際に映画を観てそれぞれが個人の感想を持ってもらいたいところであるが、そういう人物が無秩序な集団の中で生きていくのはかなりしんどいことなのではないか。

 

そういった色々なことを考えさせてくれる映画であるように僕は思った。
単に女の子が可愛いだけじゃなくて、少年少女の恋愛物語というだけじゃなくて、お涙ちょうだいの感動スペクタクル超大作でもなくて。

映画のテーマとしてはありふれたものなのかもしれないけど、だからこそリアリティがあって僕は観て良かったと感じた。

ストーリーやキャラの心理描写に関して納得いかないところも多かったし、ご都合主義や強引な恋愛の絡ませ方にやや不満もあったが、それも含めて見応えがあると思っている。

 

そして何より不思議に思っていたのが地上波の放送日時だったのだが、どうして8月25日にしたのだろうかとずっと考えていた。
6月にはすでに地上波初放送決定とニュースで出ていたし、それが少し話題になっていたから冷めないうちにもっと早く放送してもいいのになぁと思いつつも、「視聴率取るために学生の夏休みシーズンに合わせたのかなぁ」なんて考えていた。


だが、蓋を開けてみれば明日はちょうど24時間テレビの放送日。
24時間テレビといえば一昨年あたりから「感動の押し売り」「障碍者を見世物にした偽善番組」などと揶揄されてきた、オワコンまっしぐらのテレビ企画である。

しかも24時間テレビでは毎年恒例で放送開始日の21時から2時間ほどかけて感動ドラマを放送するスケジュールとなっており、その企画と「聲の形」がものの見事に被っている。


ある芸人風に言えばこれがNHKのやり方か!って感じだけど、どちらの局の愛が地球を救うのか。
チャリティもいいけれども本当に必要なのはお金ではなく人々の意識の変革ではないのか。


・・・ということで129分と結構長い映画だけど、ノーカット放送なので最初から最後まで多くの方に見てもらえればいいなぁと思っています。

 

どう見ても宣伝でした。本当にありがとうございました。